道教名山

斉雲山は、中国四大道教名山の1つで白岳とも呼ばれ、徽州休寧県から西に15kmの所に位置しています。斉雲山は黄山と向かい合い、標高が585mです。観光スポットは110?の面積で、奇妙な山、きれいな水、不思議な石、深い穴で世間に知られています。奥深い洞窟、湾曲した渓流、澄みきっている池、美しい泉を織りなした絶景です。具体的には、月華街、雲岩湖、楼上楼という三つのスポットに分けられます。奇峰が36個、怪岩が44箇所、深い穴が18個、渓流が27、池が14箇所、亭が16箇所、碑銘石刻が537箇所、石橋が5つ、寺院が33箇所あります。

中国四大道教名山の1つとしての斉雲山は、真武大帝を祭っています。武当山とともに真武大帝を祭るに因んで、「江南小武当」とも美称されています。唐の時代、道教は斉雲山に伝わって来ました。宋、元の時代、道教の基礎を定め始めました。明の時代になると、江西龍虎山嗣天師正一派張真人祖師三代は、皇帝の命令に応じて斉雲山に滞在していました。彼らはここで寺院を建て祈祷し、道教のルールを完全にさせました。ここも徐々に江南の道教活動センターになりました。「玄天太素宮」を主体としている月華街辺りは、道士や参拝者にとっての聖地です。

唐朝乾元時代(758?760年)、道士?棲霞はここで行脚し、天門岩に隠居しました。南宋宝慶時代(1225?1227年)、道士余道元は山で修行を積み、斉雲岩で佑聖真武祠を創立しました。その後、行脚僧が続々と集まり、道教の建築もますます盛んになりました。明朝の時、道教建築の規模はピークに達しました。「斉雲山誌」によると、宮、観、殿、院、館、楼、閣、亭、台など様々な道教建築は108箇所あるそうです。ほとんどの建築物は、湖北省にある武当山を模倣して建てられました。規模が広大で、気勢が雄大です。しかし、長年修理していないこともあり、戦乱中も非常に被害を受け、多くの建築は次々と壊されました。現存している数十箇所の宮殿、亭台楼閣は最近復旧したものです。

かつて祁門県の庶民たちは斉雲山へ参拝に行きました。自発的に「百子会」を設立し、100人ないし200人で構成されています。参拝の頭を数名指名し、一人の頭は11、12人ほどを管理していました。頭は会費の徴収、勘定の精算、参拝者の食事や宿泊などの雑用を取り扱いました。参拝日は旧暦の9月16日です。参拝者は提灯や紙で作られた亭を持ちながら、祁門県を一周回ってから、斉雲山を登りはじめます。各寺院へ参拝し、月華街を巡り、斉雲山を満喫し、夜は長寿楼に宿泊して翌日山を下ります。これで、参拝を終えます。

龍虎山は江西省鷹潭市の南から20キロ離れたところにある国家級景勝地であり、中国道教の発祥の地とされています。総面積200平方キロ、「神仙所都」「人間福地」と譬えられ、悠久の歴史を持つ道教文化、独特の「丹霞地貌」(赤みを帯びた堆積岩が織りなす地形)と清流が織りなす自然の風景、興味深い古墳群は、龍虎山の「三絶」として観光客を惹きつけています。元の名は「雲錦山」と言い、後漢半ば頃に道士の張道陵が、ここで不老不死の薬を作った時に龍と虎が現れたという説から、ここを「龍虎山」と呼ぶようになりました。

張道陵が不滅の真理を精一杯探求し、道教「正一派」のもとを開きました。その後、張氏子孫がここに定住し、代々正一派を守り、今まで既に1900年余り、六十三代目になりました。世襲時間においては中国で最も長い道教流派です。その影響力も強く、人々の中で「北孔(孔子)南張(張道陵)」と呼ばれています。現在、龍虎山の漢代天師府は保存状態が良く、道教の第一福地、正一派の祖庭とされています。敷地面積約3万?、なかに残された古建築は6000?余りにわたり整然と配置され、雄大で壮観です。建物は細部まで細かい彫刻などで装飾され、全体は朱塗り、古くて優雅な趣が漂います。天師府は歴代の皇帝より「宰相家」「大真人府」の号を賜り、その規模及び歴史、芸術的価値の高さから、曲阜市(山東省)の孔府に匹敵しています。

上清宮は後漢に創建され、開祖の張道陵が修業した場所とされています。中国で規模最大、最も古い道教寺院の一つです。歴代の皇帝は、大量の金銀貨幣を費やして寺を修繕、建設し、最盛期には10大宮、24殿、36院及び、その他の建築の数々が立ち並んでいたそうです。これらの建物はほとんど倒壊してしまい、現在は福地門、九曲巷、下馬亭、鐘楼、龍虎仙峰、玉門殿、東隠院、明代石刻だけが残っています。壮大なスケールで建設された寺院は、中国建築史上の一大奇観と言われています。

龍虎山景勝地世界ジオパークユネスコ世界遺産(自然・文化)に登録され、国家5A級景勝地、国家森林公園、国家重要文化財にも指定されています。近年、龍虎山を訪れる世界中からの観光客が後を絶ちません。観光客は風光明媚な所を堪能するため、道士(どうし、道教を信奉しその教義に従った活動を職業とするもの)信者たちは修業するため、学者たちは史跡を研究するためここを訪ねて、この山の醍醐味を味わっています。

武当山は、湖北省の北西部の丹江口市内にあり、大巴山の東段の一部であります。峰々はとても高く聳え、主峰である天柱峰は海抜1612メートルで、その長さは400キロにも渡ります。道教の名山でありながら、中国武術である武当拳の発祥の地でもあります。30平方キロ内に高くて険しい山が72もあり、景色が素晴らしいです。

伝説によれば、武当山は、真武大帝(玄天上帝)の聖地として有名で、古来より多くの道教の名流たちはここで修行を積んでいました。宋、元代以降、幾度も改築され、中国に現存する古代建築群の中で一番規模が大きいものになりました。宮観には神像、法器、経など、文物として芸術価値のあるものがたくさん残されました。1994年12月、武当山古代道観建築群は<世界遺産名簿>に選ばれました。

山の丘には立派な古代建築があります。伝説によれば、建築規模において五岳を超えていたと言われています。1300年前の唐代貞観年代に、道教を広げるため、五龍祠が建てられたのをきっかけに、以降、道教を信じる者が増え、武当山道教名山として有名になりました。武当山道教は、「非真武不足以当之」という言葉に示されるとおり、「玄天真武大帝」を尊んだものである言われています。

武当の文化では、「中国の根底には道教がある」とされています。武当山は、四大道教名山の中で一番の山で、中国における道教の聖地です。道教文化の源は、春秋から漢末にまで遡ることができます。その時代に、武当山はすでに宗教活動の重要な拠点だったのです。魏晋南北朝の時期に、より盛んになり、道教の第一名山になりました。

明の永楽帝は、戦乱で焼失し、朽ちかけた武当山を、莫大な国費を投入して再建しました。永楽帝は、武当山で修行し昇天したという神、玄天上帝を深く信仰していました。武当山では今も、数百人の道士たちが、玄天上帝を祀り、仙人の境地を目指して修行を続けています。また、武当山の道士は、この地発祥の中国武術武当拳の修行にも力を入れています。

現在、武当山に現存する古代建築は53あり、建築面積は2.7平方メートルに上ります。また、建築遺跡は9あり、敷地面積は20万平方メートルを超えます。さらに、山全体に保存されている文物は5035にも登ると言われています。これらのことから、この山は、「中国古代建築の博物館」と言われています。



青城山は四川省都江堰市の西南部に位置し、古くは「丈人山」と呼ばれ、主峰は上空に天高くそびえ、海抜は1260メートルです。山全体の木々が四季を通して青さを保ち、諸峰を囲む城郭のようなので、青城山と呼ばれています。何千段もの階段があり、くねくねした小道は、奥深い静かな所まで通じています。高い木々に囲まれた幽玄な雰囲気が特色で、古くから「青城天下幽」という美誉を持ちます。剣門の険、峨眉の秀、??の雄と同じレベルに立っています。景勝地の面積は200平方メートルで、古人の記述によると、青城山には「三十六峰」、「八大洞」、「七十二小洞」、「一百八景」があると言われています。

青城山は前山と後山に分けられます。前山は青城山景勝地の主体の部分で、約15平方キロメートルあり、景色が美しく、文物と遺跡がたくさんあります。主な景観は建福宮、天然図画、天師洞、朝陽洞、祖師殿、上清宮などです。後山の総面積は100平方キロメートルで、水が澄み、奥深い林、山は雄壮で険しく、真直ぐ空高くそびえ、よじ登る事は不可能です。主な景観は金壁天倉、聖母洞、山泉霧潭、白雲群洞、天橋奇景などです。

青城山は木々が青々と茂り、深緑の森林と峰、川、谷、宮と観(道教の寺院)は、互いに引き立て合っています。寺院と亭閣は自然から材料を取り入れ、装飾は少なく、山林岩泉と一体になり、道教の素朴自然を尊ぶスタイルが現れています。その他、青城山の特色は日の出、雲海、聖灯などの自然奇観です。

青城山は中国の著名な道教名山であり、中国道教の発祥地の一つです。東漢以降、二千年も経過しています。公元143年、「天師」張陵はここに来て、青城山の奥深さと緑深さが気に入り、家屋を作り道教を伝えました。青城山は道教の発祥地になり、道教から「第五洞天」と認定されました。山全体で今まで無傷に保存された数十の道教寺院には、天師洞を中心に、建福宮、上清宮、祖師殿、?明宮、老君?、玉清宮、朝陽洞などがあります。

唐末期、有名な道士--杜光庭が青城山に来た後、天師道の伝統と上清道は結合されました。杜光庭は晩年、青城山に30年間定住し、著書をして説を立て、道教の発展に大きな影響をもたらしました。

明代、青城山の道教流派は、全真道竜門派に属しました。全真道は「養身習静」という修行方法を創立します。当時、道士は山に定住して、宮観の保護、山林の栽培をさらに重視してきました。明朝末年、戦乱が頻繁に起き、道士達は避難して各地に散りました。清朝康熙八年まで、武当山全真道竜門派道士--?清覚は青城山で教務を管理した後、局面はよい方向に向かいました。現在、青城山道教流派は、全真道竜門派丹台碧洞宗に属しています。
茅山

茅山は、江蘇省の南西部にあり、面積は50平方キロメートルを超えています。中国における道教の名山の一つであり、道教の上清派が生まれた地でもあることから、道家からは「上清宗壇」とも呼ばれています。また、「第一福地、第八洞天」と称賛されています。
茅山は、江蘇省の大きな山脈の一つで、曲折が多く、「己」という字の形になっていることから、「曲山」という別称を持っています。西漢年代、茅盈、茅固と茅衷という名の三兄弟がいました。彼らは曲山で、道教の修行を積みながら善行をし、人々を助けました。後人は、彼らの功を記念するため、曲山を「三茅山」と名づけ、「茅山」という略称が広く知られるようになりました。



三清



三清
三清山は江西上饒の東北部に位置し、昔から「天下第一の仙峰であり、ほかならぬ福地」と称賛されています。主峰の玉京峰は海抜1816.9mです。玉京、玉華と玉虚の3つの峰が三清(つまり玉清、上清、太清)に聳えていることから名付けられました。三清山は14億年もわたる地質活動を経て、風雨の浸食によって、今のように世に並ぶものがない花崗石の峰林地形になったのです。



三清山は美しい山岳地形で名を広く知られていますが、独特な道教の寺院などの観光名所もたくさんあります。すでに周遊できる峰は48あり、奇怪な岩は52ヶ所です。また、名勝は500ヶ所を超えています。

三清山は昔から歴代道家にとって修行の場です。唐僖宗の時代(873〜888年)、信州太守の王?は三清山の北麓にきた際、その山紫水明、景色清幽にものすごく感動し、ついに官職を辞し、家族を連れここに隠居することにしました。
三清山風景区には「東険、西奇、南絶、北秀」といわれ、豊富な資源と多数の名所があります。古代の名家、王安石朱熹、蘇東坡なども三清山に足跡を残しています。

鶴鳴山

四川省大邑県に位置している鶴鳴山は、古剣四大名山の1つで、鶴の形をしていることに因んで名づけられました。東漢時代、張道陵はここで修行を積み、仙道に入り、さらに「五斗米道」を設立したと伝えられています。その後、「五斗米道」が中国道教の主流の「正一道教」に発展していったので、鶴鳴山は漢代天師道の発祥地と言われています。北宋時代の陳希夷、明代の張三豊など歴代の有名な道士は、ここで修行を積みました。

山の中に、太清宮、延祥観、鶴鳴観など名高い道観が数多くあります。東漢時代、紫陽、太清、天師などの建築は、時の流れを経るにつれて、廃棄された建物もあります。明代嘉靖時、政府側は道教を大いに宣伝し、現存していた建築を基に増築したり、新しい道観を建てたりしました。新たな楼閣と美しい庭園を誇り、鶴鳴山は、一時大きく雄大な規模の道教聖地になりました。明代末期の戦争により、一部分の建築が破壊されましたが、20世紀60年代に至っては、太清宮、文昌宮、解元亭、三官廟、八卦亭などの建築は残存されています。

?山




勞山
?山は古くから、「牢山」、「労山」あるいは「鰲山」など、史書によって様々な名前で呼ばれていました。?山は山東半島の主な山脈で、主峰の名前は「巨峰」或いは「?頂」と言います。?山は海抜1132.7mで、中国海岸線で一番高い峰でもあることから、「海上第一名山」という別称も持っています。黄海の浜に聳えており、海から突き出たようにそびえる?山は、険しく雄々しく「山海奇観」と呼ばれています。



中国の沿海部では唯一1000m以上の山で、別名「近海名山」とも呼ばれています。山、林、泉、滝などの自然と共に文化、宗教的な歴史もあることにより、全国でも知名度の高い観光地となっています。?山に沿った海岸線は87kmに渡り、島は合計18個あります。また、?山は我が国の有名な道教名山の一つであります。昔、最も盛んな明代には「九?八観七十二庵」もあり、山全体に道士が1000人以上いました。著名な道教の道士、丘長春、?三豊もここで修行を積んだそうです。しかし、ほぼすべての道教寺院が壊され、現在残されているなかで、一番規模が大きく、歴史が長いのは太清?です。

羅浮山

羅浮山は道教の聖地として中国十大名山の一つに数えられています。歴史家の司馬遷はを「粤岳」と喩えたことがあることから、「?南第一名山」という美称もあります。広州の東90キロに位置する羅浮山は、?南の「旅行&レジャーの廊下」と言われる地区の中心にあり、「広州→香港→恵州」という旅行のゴールデントライアングルを構成する風景明媚で代表的な所です。

羅浮山は、西は進歩した都市群(広州、仏山や南番順など)と繋がり、南部は東莞、シンセン、マカオや香港などに隣接しています。計画された風景区面積は260平方キロメートルあります。主峰飛雲頂は海抜1296m、ほかに400以上の峰があります。また、滝は980ヶ所を超え、洞天奇景は18カ所、石室は72個あります。羅浮山は風景が素晴らしいだけでなく、文化的にも繁栄しているので、年間百万を超える旅行者が尋ねてきます。さらに羅浮山は最近、第五回「国家重点風景名所」に認定され、より良い発展に向かう重要な一歩を踏み出しました。

羅浮山の名所の中でも見逃してはいけないのは朱明洞です。朱明洞は1600年以上の歴史を持っており、全国十大古代観光地の一つです。

玉屏山

玉屏山は、かつて「雲占山」と呼ばれ、四川省洪雅県から西南30キロのところにあり、全長11キロメートルで海抜1382メートルです。山全体の形が屏に似ていることから、「玉屏山」と名付けられました。

玉屏山には人によって丁寧に管理された人口森林があります。柳杉林は、見渡す限り、果てがないほどまっすぐ植えられ、夏は涼しく、理想的な避暑地となっています。

東側には「聴泉閣」があり、その様式は古風でかつ素朴であり、絵に描いたように美しさです。中国民族建築の特徴を持っており、また、閣の中には、「泉出林間飛白練、云深山岫漫藍天」という対句が飾られています。朝は日光を浴び、夜は家々の灯火が見えます。左側に行けば名山飛仙閣が見えます。そこには銀色の瀑布があり、高さ150メートルほどの岩から、かつてはすごい勢いで水が流れ落ちていました。現在では、その水勢は発電に利用されているため、普段はわずかな水流ですが、大雨の日になると昔と変わらない勢いで落ちてきます。

西側には「静思亭」という建物があり、とても麗しいです。雲が纏わり、柏木岡の滝が流れます。また、玉屏山には明代に建てられた摩岩造像が39の棚に57尊あり、流れるような輪郭が特徴的です。

??山

道教の典籍によると、道教元祖老子の前身は??山で修行を積む広成子です。それゆえに、??山は「天下道教第一山」と称しても過言ではありません。秦漢時代、??山に隠居をした道士がいたとか、魏晋時代、道教の寺院が建てられたとか、明代に至っては、有名な道士張三豊が??山を最後の居場所として隠居していたなど、いろいろ伝説が伝わっています。明朝嘉靖初年、朱元璋第二十子の朱松の子孫は、??山に太和宮など道教の寺院を沢山建てました。さらに、全真竜門派第十代住職の苗清陽を誘い、??山住職を任命しました。これを機に、道教は??山に代々伝わることになりました。

仏教も??山に1500年の歴史を持っています。唐の時代、仏教活動は盛んに行われていました。元の時代、安西王は仏教を信仰するため、自ら指揮して??山東台宝慶寺を建てました。大臣の商挺を宝慶寺の住職として任命し、陝西、四川、西夏など省の仏教事務を管理統括させました。明の時代、中台凌空塔が建てられました。明神宗皇帝は??山真乗寺に横額を下賜し、皇太后は??山仏教に3万冊余りの経典を賜ったことがあります。清朝初年、仏教寺院は??山に19箇所に及びました。現在、??山には道教と仏教が共存し、二つの宗教の調和が取れているので、??山は他の名山と違った独特の感じが味わえます。

閣�抓山

閣�抓山は江西省樟樹市の南東から20キロ離れたところ、?江(かんこう)の東岸に位置し、200キロにわたり延々と続いています。山の形は楼閣に似ていて、色は�抓(黒、茂った森で黒く見える)なのでこの名が付きました。伝説によると、名高い道士の葛玄がここで修業して悟りを啓いた後、8年をかけて仙薬を作り、飲んで仙人になったそうです。葛玄のことで山は道教の聖地となり、多くの道教関係者はここに集まり、宋「閣�抓山景徳観記」によると、最盛期には山に建物1500余りが建てられ、道士500名が修業していたといいます。

閣�抓山は大小百を超す峰々からなり、道教史跡は密集しております。駱駝峰は葛玄が仙薬を作った場所、太極峰は天女が髪を整えるところ、西坑掛壁峰は道教開祖張道陵が修業した場所、天師壇が設けられています。凌雲峰の崖に「鳴水橋」という名の石橋が架けられ、北宋政和元年(1111年)の創建で800年余りも風雪を耐えてきたものです。

閣�抓山は道教「霊宝派」の総本山で、龍虎山、茅山と肩を並べます。南宋の初代皇帝である宋高宗より「天下第三十三福地」の誉を賜りながらも、元代以降寺院は廃れ、清代には建築物の基礎部分8ヶ所しか残っておりませんでした。1990年に樟樹市政府が大万寿祟真宮、山門、接仙橋、鳴水亭、放生池、百草園、道徳宮(紫陽書院)など、道教史跡19ヶ所を修復?再建し、山を甦らせました。現在は毎年数万の観光客、信者たちがここを訪れ、山に活気が戻りつつあります。

泰山




岱廟
泰山は山東省泰安県、歴城県と長清県の間に位置し、古くは岱山や岱宗と呼ばれ、春秋時代に泰山という名に変えられました。中国の東部に位置するので,東岳とも称されます。総面積が約 400平方キロメートルで、主峰の海拔は1545メートルです。山頂からの景色は雄壮で、名勝と遺跡がたくさんあります。中国名山の第一位で、聖山五岳の一つです。また「五岳の長」、「五岳独尊」という美誉を持ちます。古代では歴代の帝王が封禅大典や天地の祭祀などの宗教活動を行う重要な場所の一つとされていました。夏、商、周三代の七十二名の君主はここで祈りと祭祀をしたということです。史料の記載によると、秦始皇が公元前219年に泰山に登って封禅したこと以来、秦二世胡亥、西漢武帝劉徹、東?興武帝劉秀、安帝劉祐、唐高宗李治、唐玄宗李隆基、宋真宗?恒、清聖祖玄?がみな泰山に登り封禅をしました。



道教は泰山を「群山の祖、五岳の宗、天地の神、神霊の府」と認め、「第二小洞天」と呼び、その神を東岳天斉仁聖帝と尊称しました。文物と遺跡が山の至る所にあり、岱?、天?殿壁画、銅亭、鉄塔、王母池、紅門宮、斗姆宮、南天門、碧霞祠、経石峪、秦漢石刻、唐宋摩崖などは著名です。名勝景観も全山に分布し、主に竜潭水?、虎山水?、大衆橋、柏洞、中天門、雲歩橋、望人松、対松山、仙人橋、瞻?台、観日峰、扇子崖、傲来峰、黒竜潭、竜潭飛瀑、石?松涛、岱?の「旭日東升」、「?霞夕照」、「黄河金帯」、「雲海玉?」という四つの奇観などがあり、その内、王母池、碧霞祠、玉皇観、斗姆宮、万仙橋などが道教の著名な建築とされています。特に碧霞祠は有名で、現在、全国道教の重点宮観と認定されています。泰山は中国の山岳パークの一つだけでなく、東方天然の歴史、芸術、文化の博物?で、それと同時に道教の「洞天福地」なのです。

華山

華山は、中国の著名な五岳の西岳で,?西省華?市の南部に位置し、5000メートルの広さです。秦嶺の東段に属します。『水経注』には、「遠而望之若花状」、「西方為華山,少?用事,万物生華,故曰華」という記述があるので、「華山」と呼ばれます。

華山は主に南峰(落雁)、東峰(朝陽)、西峰(?花)、中峰(玉女)、北峰(雲台)の5峰からなり、その中主峰落雁、朝陽、?花は高く?しく、神技があるようにそびえ立っています。南峰は一番高い峰だけでなく、五岳の中では最高の峰です。?上に登り群山を見下ろし、山々が重なり合ってそばだち、勢いがあります。ここに「仰天池」と呼ばれる池があり、一年中澄みきっていて涸れません。玉女と雲台はほかの峰に比べて高くはないですが、それぞれの特色があります。

?光明媚な華山は、中国の著名な景勝地だけではなく、道教の有名な「洞天福地」です。華山には奇妙な石がたくさんあり、岩洞が全山に分布し、『雲笈七??洞天福地記』によると、華山西玄洞は、三元?真洞天とも呼ばれ、十大洞天の第四洞天とされています。華山洞は、太?総仙洞天とも呼ばれ、三十六小洞天の第四洞天とされ、他に?花洞、玉皇洞、太上洞、賀老洞、迎陽洞、希夷洞などがあるということです。

古くから道教教徒は華山での修行に憧れていました。歴代の著名な道士、?士の修行の?跡と文物が山の至る所にあり、彼らに関する伝説と物語は、今日(こんにち)まで当地に伝わっています。道教が形成する前、その前身「方仙道」、「黄老道」の?期に、すでにたくさんの著名な神仙家達が華山に定住して修道しました。

唐代は道教の盛んな時期で、唐高祖、唐太宗などが華山に登り拝礼をしました。唐睿宗の娘金仙王女は華山で修道し、唐玄宗が王女の為に仙姑観、白雲宮を建てました。

宋代、陳?と華山の関わりは、華山で道教史上一層際立った存在になりました。??は道教の学者で、道教の祖師とも言い、その思想が後世の道教に大きな影響をもたらし、道教史で重要な地位を占めます。金元時、王重陽は全真道派を創建しました。全真派が興った時点で、華山は全真道場になりました。

北京白雲観

道教の全真教の第一寺院といわれる白雲観は、北京市の西便門外にあります。ここに中国道教協会、中国道教学院と中国道教文化研究所など、国家級道教組織が次々と設立されてきました。また、白雲観は北京において数ある「文革」で壊されずに生き抜いた寺院の一つでもあります。道教の二大教派の一つである全真教の本山であるこの寺院は、この地方の道教の中心的な役割を果たしていました。

白雲観は龍門派の祖庭であり、前身は唐の天長観でした。唐の劉九宵が書いた<再修天長観碑略>によると、唐代玄宗老子を備えるために天長観を建てたそうです。金の時代以降、太極宮や長春宮と改名され、また明の初期に白雲観と呼ばれるようになりました。現存する白雲観の殿堂は明清の時代に改築されたものです。

山門に入れば、全建築は中、東、西および後院の四部分に分けることが出来ます。非常に大きな規模であります。中道の線には霊宮殿、玉皇殿、老律堂、邱祖殿、三清閣、四御殿と鐘鼓楼という順番で並んでおり、三清閣の東側には蔵経楼です。また、東道のほうには南極殿、闘姥閣、羅公塔;西道には呂祖殿、八仙殿、元君殿、文昌殿、元辰殿、祠堂院などがあります。規模が大きい上に、隙間がないほどきちんと整って並んでいます。青々とした木が木陰を作って、非常に静かで落ち着ける場所です。

宮観式古代建築群というスタイルです。金の時代に太極宮に改築されて以来、道教寺院という大方の形ができています。当時、「千柱之?,百常之観,三極之壇,巍巍乎,奕奕乎」と称賛されていました。建築全体は50以上の殿堂があり、建築面積は10000?を超えています。中国南北宮観と園林、両方の特徴を持っています。特に裏庭は、亭台楼閣も樹木も山石もそれぞれに妙趣があって、古くから「小蓬莱」という美称があります。

長い歴史を持っている白雲観は現在、首都北京の名所古跡の一つになっています。毎年、国内や海外から多くの旅人が、その独特の魅力に憧れ訪れてきます。特に毎年の春節になると、伝統的な祭りが行われ、行楽客の行き来が絶えることがなく、とても賑やかです。現在白雲観は、中国道教文化と伝統を知る重要な窓口と言えます。

重陽

重陽宮は中国の著名な道教寺院で、全真道の祖庭(祖師の修道の寺院)とされ、重陽万寿宮、祖庵とも呼ばれ、?西省西安市区の西南側から40キロメートルのところに位置し、?西省西安市?県祖庵鎮に属しています。



重陽
重陽宮は、中国道教全真派の三大祖庭の第一位を占め、全真道の祖師王重陽が若いころ修道した場所であり、埋葬されたところです。小説家金庸の作品『神彫侠侶』の中に重陽宮に対する芸術化の描写がたくさんあります。
重陽儒教、仏教、道教という三教を結合させた「三教円通,識心見性,独全其真」を宗旨として、全真と命名しました。彼の弟子丘処機が元太祖から重んじられ、全真教は北方で盛んになりました。王重陽、丘処機の全真教義に関する著述が巷で流行しました。

金世宗大定七年(1167年)、王重陽は自分で居を焼き、東方に旅をして、山東寧海まで、丘処機、劉処玄、譚長真、馬?諸弟子を取り、全真道教を創建しました。王重陽が亡くなった後、弟子達はその?体を旧居に埋葬しました。馬?は全真教を管掌し、当地で道教の寺院を建て、「祖庭」という二字を書いて扁額としました。その後、王重陽の弟子王処一が上奏して、当地で霊虚観の建築を求め、その上、丘処機が重陽宮という名を変えることを求めました。結果、元世祖の頃に重陽万寿宮と呼ばれました。重陽宮は元代の北方道教に大きな影響があり、「天下祖庭」、「全真聖地」という尊称を持ち、山門の上方には、元代皇帝の賜った金扁額が、現在でも明瞭に見ることが出来ます。

元代の頃、重陽宮殿堂の建物は合計約5048間あり、東側が東甘河まで、西側が西甘河に達し、南側が終南山に至り、北側が渭河に近く、最盛期は、全真道の万人にも近い教徒がいつもここに集まりました。明清以後、建物がしばしば破壊され、宮院の規模は縮小していきました。現存の霊官殿、七真殿が清同治十三年に再建され、その規模は元代に比べ小さいです。元代盛んだった大重陽万寿宮の碑石、石棺のほか、いくつかの巨大な基石と、残りの屋根一点が保存されました。それらから当時の宮殿の広大な勢いが垣間見られます。

永楽?

山西省(?/丙)城県に位置する永楽?は元代全真教の源流の一つです。?虎殿、三清殿、純陽殿と重陽殿は保存されています。元朝から明朝の初めまでに作られた精美な道教の壁画は、430?余の広さとその美しさで有名になりました。永楽宮に残された壁画は壁画芸術の宝ともいうべき、敦煌の壁画と同じようによく知られた芸術品です。永楽宮の壁画は歴代の壁画の優れている点を受け入れたものです。唐朝の宗教壁画は人物の表現は大胆で厳しいだけでなく、繊細な筆致、生き生きとした姿と高尚な勢いという特色を持っています。永楽宮の壁画は特にその特徴、具体的にいえば?道子を代表とした唐朝の正統的な特徴を受け継ぎました。それで、宗教人物画の最盛期と言われる唐朝の壁画を研究するため基礎になりました。でも、宗教が衰えていくことに従って宗教に関する壁画の勢いもだんだん消えてしまいました。上位にいた人物画は、民間に入って巻物になりました。その隆盛も時間の流れの中で消えてしまいました。


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