初北京のはなし

冬に北京に所用で行くことにして早いですが予約をしました。かなりひさしぶりです。
90年初めて北京に行ったとき黄砂の熱烈歓迎を受けました。当時は中国に無知で会社の同僚がそこはとても面白いというので、新彊に行くことにしたのです。北京は通過地点でした。空港からリムジンバスのような暗いバスにのって市内のどこか(空港で買った縮尺のいい加減な地図のみでよくわかりませんでした)に着き、強風の中、人力車に乗って安いとされるホテル(北京南にある僑園飯店のドミトリー 当時はここから長旅を始める人も多かったはず)に行こうとしました。料金がわからないので料金の交渉をしてからです。物価を知らなかったので、その時点でおそらくぼられていたのでしょう。途中、運ちゃんの友人が乗ってきて交代で運転していました。ホテルに着くと、降りる段になってなぜか私に対して2人分!?要求されました。運ちゃんの友人も運転?したからだという主張で、今から思えばよくある話。ただ、私は客にふっかけるという考え方自体が当時まったく理解できなかったので、理不尽な要求を拒否し、なおかつ1元も払わず立ち去ろうとしたので口論になりました。そのうち相手がぶん殴るそぶりを見せました。私より身長も低く小太りで、その脅すそぶりから武術やボクシングの心得はなさそう(つまり勝てそう)と判断した姑息な私は、先手必勝でたたきのめすべく適当な距離を測りつつ身構えると、途端に相手がひるみ、1人分で良いから払えというようなそぶりをしました。それを見て、なんだ臆病な連中だと思ったものでした(あくまで当時の感想)。運ちゃんが脅してきたのは単にボルため生活のためでケンカするつもりはなかったのです。口論のバックミュージックはウイグル族若者の「チェンジマネー」の連呼でした。人が真剣にケンカしてるのに、当事者にやみ両替をもちかけるとはこいつらはどういう神経してんだと思ったものでした。私もそのときはまだ25歳で血の気も残っていました。現在は「生活第一」で当時の発想は100%しませんので念のため書いておきます。ああ、それにしてもあの運ちゃんはいまどうしているのでしょうか。何故かこのときのことをなつかしく思い出すことがあります。もし会うことがあったら「殴るつもりはなかった」と言いたいです。ちょっとウソですが(笑)正義の戦争より不正義の平和のほうがより良いと思う今日この頃です
(念のためさらに付け加えると「運ちゃん」は親しみをこめて使っています。「運転手」では感じが伝わらない気がしたので使用しました。個人的には言葉狩りの類は排すべきと考えていますが、不快に感じる方がおられたら申し訳ないと思います)
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