西安&敦煌1999年

敦煌編>
7月13日(火)
西安から敦煌までは2時間ほどで到着した。敦煌の空港ターミナルは土壁でできていた。とてもローカルな空港だった。飛行機に預けた荷物もどこから出てくるのか何のアナウンスもない。係の人に聞いても、首を振って外を指差すだけだった。変だなーと思いながら裏にまわって見ると、荷物が外に置き去りにされていた。
空港の外に出ると何台かのタクシーとバスが待っていた。僕らは迷わずバスに乗った。だがタクシーの運転手がバスの中に乗り込んできてまで客引きをしている。バスに運転手が乗っているのに!他の客はタクシー運転手の根気に負けてみなタクシーに乗り換えた。僕らはあまりにしつこい客引きは嫌いなので、無視してバスの席に座っていた。するとバスの運転手が笑いながら「タクシーに乗りなよ。」と乗り換えることを薦めたのだ。これには驚いた。だって自分達の客をタクシーに取られて悔しいのが普通なのに、客に乗り換えを薦めるなんて!それを聞いたタクシー運転手は僕らの腕を強引に引っ張った。僕と幸之介は観念してタクシーに乗ることにした。降りる間際、バスの運転手に「これでいいの?」と聞いたら笑って「いいんだよ。」と言った。この街は観光で成り立っている。バスの運転手もタクシーの運転手もみんな仲間なのだ。
僕らは敦煌賓館に向かった。敦煌の町は思ったよりも涼しかった。道路もぬれていた。敦煌といえば乾燥しているイメージがあったから不思議に思って運転手にきくと、昨日雨が降ったとのことだった。敦煌では雨は珍しいので明日は晴れるだろうとのことだった。タクシーの中で運転手は交渉をしはじめた。僕らの明日一日の足になるというのだ。彼らが熱心に客引きをするのはこれが目的なのだ。僕らは値段の交渉をしながら考えておく、とだけ言ってホテルで降りた。
7月14日(水)
翌日、敦煌は雨だった。タクシー運転手の予報ははずれた。その運転手から部屋に電話があり、雨が降っていると莫高窟はみられないから、他に連れて行くという。なんで運転手が僕らの部屋がわかったのか。ホテルのフロントに聞いたのだという。バスの運転手といいホテルのフロントといい、観光のためには倫理観のない街だ。
僕らは旅行の疲れがたまっていたので雨がやむまで睡眠をとることにした。お昼頃になってまた運転手から電話がかかってきた。雨が小降りになって莫高窟が開館したとのことだった。本当か嘘かはわからないがとりあえず僕らは莫高窟へ向かった。 莫高窟は市街から車で西へ30分ほどのところにある。雨のためか駐車場はガラガラだった。入場料を払い、入り口に行く途中に何人かの日本人の肖像が描かれた看板がたっている。創価学会池田大作平山郁夫など敦煌の壁画保存のために寄付をした人たちの看板でごていねいに、出資した金額まで記されていた。入り口で人が20人くらいになるまで待たされた。ガイドなしでは勝手には歩き回れないのだ。日本語専門のガイドもいたが、金額が上がるので僕らは中国人に混ざって中国語のガイドについた。僕は中国語にはそれなりに自信があるので幸之介に通訳をしたが、こういった歴史的な専門用語になるとさっぱりだった。年代ぐらいは聞き取れるが由来とかになるとよくわからない。まあ百聞は一見にしかずということで、見ればなんとなくわかるし、幸之介は仏教美術に詳しかったので救われた。どの部屋も電灯がないので真っ暗。懐中電灯は必需品である。
8箇所ほどの石窟を見てガイドが終わった。本当なら10数か所以上は見られるらしいが雨のため見られる石窟が限られていたらしい。上の写真の場所で解散となった。僕らはガイドさんをつかまえて他の石窟もみたいとお願いした。敦煌は別料金を払えば他の石窟も見せてくれるのだ。僕らは事務所に連れて行かれ、見たい石窟の番号を書き、先にお金を払った。ガイドさんは日本語ができ、しかもとても上手だったのでわかりやすいガイドをしてくれた。別料金の石窟は壁画や仏像が間近で見ることができた。幸之介に「どの石窟がよかった?」と聞かれたが、どれもインパクトがあり答えられなかった。 (この項続く)
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