成都周辺三国志遺跡

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剣門関


剣門関は、四川省広元市剣閣県にあり、広元市の中心から約50キロ以上離れたところにあります。

剣閣県の城南大剣山と小剣山の谷間にあり、両側は断崖絶壁で、山々が剣のようでありそれが対峙して門のような形をしているので、剣門と呼ばれています。唐代詩人李白の『蜀道難』から「一夫当関,万夫莫開」(一夫関に当たるや万夫も開くなし)と讃えられたため、世に名を知られるようになりました。

剣門関と三国

剣門関は歴代の兵家達によって必ず争われてきた天然の要塞です。「険門関を得れば、四川を得る」とも 言われた険峻な地で、この二千数百年の間に百回近くの戦があったそうです。三国志の時代では諸葛孔明が関楼の下の谷に30里に及ぶ閣道を造って北伐の根拠地としました。険しい山々がそそり立ち、その名のごとく剣の門です。そして蜀が滅亡する直前、3ヶ月に渡って剣門関を死守したのが姜維でした。263年8月、魏は全軍をあげて蜀に侵攻しました。姜維は沓中から退いて剣閣(剣門関)に立てこもり、鐘会に抵抗しました。兵数10万を誇る鐘会軍もなかなかこれを攻め落とせず、姜維に向かって投降を呼びかけるが、姜維は頑に抵抗を続けました。 しかしトウガイが陰平から人跡未踏の険路を七百里も超えて江油に入り、綿竹関を破って成都に至ると、劉禅は何もせずに魏に降伏しました。事情を知らぬ姜維は広漢に退いて状況把握につとめました。后主の「降伏せよ」との令を知り、姜維は「ふ城」でやっと鐘会に投降したのです。武将達は知らせを聞くと、刀を抜いて石を斬りつけ、その無念さをあらわしたといいます。

剣門関の観光スポット

剣門関は剣門蜀道国家重点名勝区の核心景勝区であると同時に、剣門関国家森林公園の主役です。三国文化と蜀道文化、関所文化が集まったスポットです。

剣門関は山が雄壮で、関所が険しいほかに、奥深い峡谷、秀麗な翠雲廊、奇妙な岩石、珍しい山洞で有名です。文物遺跡も多くあります。主なスポット:剣門関、剣閣道、剣門関楼、七十二峰、小剣山、姜公祠、姜維墓、�殀艾墓、鐘会故塁、後関門、石笋峰、梁山寺、翠屏峰、仙峰観などで、また著名な「剣門四景」(剣門細雨、梁山松涛、夕照絶壁、雪染翠雲)と「剣門四奇」(姜維石像、千年ハナズオウ、松柏長青、剣山石笋)があります。
ホウ統





ホウ統祠は龍鳳祠とも呼ばれ、四川省陽市羅江鎮白馬関に位置しており、四川省で一番早く修築され、もっとも完璧に保存された三国時代の遺跡の一つです。全国で唯一、三国時代の政治家であり軍事家であるホウ統だけを祭祀する祠と墓なのです。 古代、秦から蜀に続く道の最後の堅固な関所で、省級の保護単位になっています。

ホウ統(179-214)は襄陽人で、字を士元といい、号を鳳雛といい、三国時代劉備策士を担任し、諸葛亮と同じように有名です。「伏龍(諸葛亮の号です)、鳳雛、どちらかを手に入れば、天下を安定させる」と世間に知られています。ホウ統の墓は、214年に、ホウ統が流れ矢に当たって死亡した後、蜀漢劉備が建てたものです。戦争でこの墓も祠もすべて破壊されてしまいました。清の時代、康熙三十年(1691年)に、修復されました。祠や墓の周りはたくさんの松の木とコノテガシワに囲まれ、青々と茂っており、景色がまるで絵のようにきれいです。

ホウ統祠墓の構造

ホウ統祠墓の主な構造は、門庁(入り口の広間)、二師殿、栖鳳殿、墓の四部分に分かれています。建築全体は雅やかで古風的で、荘厳でしめやかです。本殿の裏にある石壁には晋代の書道家陳寿の書いた「龐靖侯伝」が彫られています。二馬亭は両側に建てられ、それぞれ白馬亭、胭脂亭と呼ばれ、劉備ホウ統が馬を交換することを象徴しています。

二師殿の前に、張飛が植えたと伝えられている「張飛柏」と呼ばれる大きいコノテガシワが二本あります。現在まで1700年余りの歴史があります。

二師殿はホウ統諸葛亮を祭祀する堂なのです。背景に東漢末期群雄割拠の戦乱状況を再現しています。二師殿の後ろに栖鳳殿があります。そこに安置してあるホウ統の彫像は横向きに立っている姿で、ホウ統が知謀にたけていて断固としている大将の風格を表しています。栖鳳殿後ろ壁の両側の扉を出ると、ホウ統の墓は目の前に現れます。しかし、この墓は後世の人がホウ統を記念するために建てられたもので、ホウ統の本当の墓はホウ統祠に近い落鳳坂のそばにあります。

ホウ統祠墓の前の金牛古道は石畳の小道でわだちが深く刻まれ、コケがいっぱい生えています。近くには、諸葛亮の長子である諸葛瞻が魏国の�殀艾と血を浴びて奮戦して、命をささげた台があります。ホウ統祠墓周辺は険しい山岳地帯で奇岩が連なり、渓谷が流れ、しかも洞窟や泉があり、さすが蜀漢遺跡の唯一無二のスポットなのです。三国の古を懐かしみ、現代の美を観賞するおすすめのスポットです。

ホウ統祠墓の縁日

年に一度のホウ統祠墓の縁日は毎年正月二十三日(ホウ統の誕生日だと伝えられています)。白馬関で六日間、ホウ統祠墓の縁日が行われ、地元では規模が一番大きいお祭りの一つです。現在、人々が観光し、古跡を懐古し、素晴らしい景色を眺め、ピクニックに行くようなお祭りになります。

成都武侯祠





成都市郊外にある三国時代蜀漢の宰相・諸葛亮孔明)を祭った社です。成都武侯祠は完成初期、昭烈帝劉備の祠の隣に位置していましたが、明の時代の初年、漢昭烈廟に合併されてから、君臣を一緒に祭る祠になりました。孔明の贈り名である忠武侯にちなむ武侯祠として親しまれています。

現在、成都武侯祠観光地は15万?の面積を持ち、三国歴史遺跡エリア(文物エリア)、西区(庭園エリア)や錦里民俗エリアといった三つのエリアからなり、「三国聖地」と呼ばれています。

文物エリア

文物エリアは漢昭烈廟(劉備殿)、武侯祠、恵陵からなっています。

戦火のため、現存する建物は清代康熙の1672年に再建されたものです。3.7万平方メートルの広大な境内には、南北方向の中軸線に沿って大門、二門、劉備殿、過庁、諸葛亮殿の五つ主体建築があります。

大門と二門間の碑

大門を通ると、生い茂る緑の中に六通の石碑があり、中でも孔明を称えた唐代の809年建立の石碑はかなりの文物価値を持っており、"三絶碑"と呼ばれています。これらは唐代の著名宰相裴度が作った碑文、書法家柳公権が書いた書、名匠魯建が彫ったもので、いずれも卓越しています。

劉備殿

二門を入ると、規模が雄大で広々とした劉備殿が目の前に現れます。この正殿の両わきに殿があります。劉備殿には金泥の劉備像が安置され、東側に関羽父子と周倉の彫像、西側に張飛子孫三代の彫像が立っています。東西の廊下には、蜀漢文臣の彫像14台、武将の座像14台がそれぞれ置いてあります。

諸葛亮殿

劉備殿を出て、「武侯祠」という額が掛けられた居間を通り過ぎると、諸葛亮殿に到着します。この殿の真ん中に、黒い絹糸のひものついた頭巾をかぶって、鳥の羽で作ったうちわを手に持った諸葛亮の金箔貼りの彫像があります。彫像の前に置いてある三つの銅鑼は諸葛亮が軍隊を率いて南へ征戦したときに作ったものだと伝えられ、「諸葛鼓」と呼ばれています。緻密な模様が彫られ、貴重な歴史文物だとされています。

恵陵と武侯祠文物陳列室

諸葛亮殿を出て西の方向には、「恵陵」と呼ばれている劉備の墓があります。

「恵陵」を出ると、「武侯祠文物陳列室」があります。蜀漢文物の複製品や三国歴史の写真が展示されています。武侯祠に書画や対句の掛け物がたくさんあります。その中で国を愛していることで有名な宋代の武将である岳飛が書いた『出師表』や現代書道家尹黙が書いた『隆中対』は一番人目を引きます。

庭園エリアと錦里

2003年12月、元成都市南郊公園は合併され、武侯祠庭園エリアになりました。南郊公園は元国民党の軍長である劉湘の墓園でした。この墓園は規模が雄大で、レイアウトがしっかりとしています。400mあまりの中軸線上、浮き彫りの石製の表門、三洞門、四方亭、多角亭、薦馨堂などの主体建築があります。このエリアはもうすぐ三国文化の宣伝兼体験センターになります。

武侯祠のすぐ隣にある「錦里」古町は武侯祠博物館の一部です。建築面積はおよそ14000?で、街の全長は550mです。建築のスタイルは清代末期から民国初期の四川民居をベースとしています。内容は三国文化や四川伝統民族文化を中心としています。




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