三国志人物

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曹操
曹操(そう そう Cao Cao 155年 - 220年)は中国後漢末の武将であり政治家、詩人である。字は孟徳、沛(はい)国(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の人。幼名は、阿瞞また吉利。廟号は太祖。謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩は夏侯氏であったが中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが、疑わしい。

曹操孟徳肖像画後漢三国時代の人物批評家許子将は、曹操のことを「治世の能臣、乱世の姦雄」と評した。 演義では、「爪黄飛電」・「絶影」を愛馬とし、対となす宝剣「倚天の剣」・「青紅の剣」を作らせる。(「絶影」は実際にも乗っていた。影もとどめぬという意味)。

曹操の生涯

群雄割拠、実力が上昇

祖父の曹騰は後漢の順帝の時から桓帝の四代の皇帝に宦官として仕え、大長秋まで昇りそれなりの財を築いていた。父曹嵩はその金で太尉の地位を手に入れた。

曹操が生まれた頃の後漢朝は権力を握った宦官とそれを憎む士大夫の間で激しい暗闘が繰り広げられていた。この戦いは常に皇帝を握っている宦官が有利だったが、184年(中平1)の黄巾の乱の勃発により状況は一変し、武力を握ることが権力の条件となった。その後、董卓が朝廷を牛耳ると洛陽から脱出し、各地の諸侯に連合を呼びかけ、袁紹を盟主として挙兵。連合軍は董卓の軍を破るが、董卓が洛陽に焦土戦術をかけていった事から戦意を失い、諸侯は兵を持ったまま各地に散らばっていった。事実上この時点で後漢は滅び、群雄割拠の時代となった。

この時期に曹操は黄巾軍の残党30万を降して自らの兵力とした。これ以降、曹操の実力は大きく上昇し、諸侯の間でも注目されるようになった。193年、天下制覇の中途で徐州の牧陶謙に父親を殺された恨みから、徐州大虐殺を引き起こす。この時、徐州には鶏や犬でさえ鳴く者はおらず、死体のため河が堰き止められたというほどの惨状であった。この虐殺により曹操は極めて大きな悪評をこうむることになり、『三国志演義』において曹操が悪役扱いされることの根源となった。

192年、董卓呂布に暗殺された後は、呂布らを追った李?らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李?らは常に内紛を続けていた。196年、荀�嗽と程[日/立]の勧めで、長安から逃げてきた献帝を自らの本拠である許都に迎え入れた。後漢帝室の威光を背後に付けて有利に政戦略を展開し、呂布袁術張繍といった諸侯を制圧。張繍は降伏したのち再び反逆し、張繍軍の襲撃のため長男の曹昂らを失った。曹操自身と愛馬の絶影もこの時負傷したという。その後、曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繍は再び曹操に降伏し、曹操も快く迎え入れた。

官渡の戦い、魏・呉・蜀三国割拠

200年に官渡の戦いで最強の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。204年(建安9)、袁氏の本拠である?(現在の河北省臨[シ章][りんしょう])を攻め落とし、ここに本拠地を移す。207年、袁氏に味方する烏丸(うがん)族を討ち、袁氏一族を滅ぼした。 曹操の実力は圧倒的な物となり、残るは荊州劉表、呉の孫権、蜀の劉璋、漢中の五斗米道、関中の馬超を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。

曹操は三公制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉[王宗]を降し、長江を下って呉へ攻め込もうとした。呉の大将は周瑜、呉と劉備の連合軍は5、6万と推定される。208年(建安13年)12月、赤壁の戦いが起こり、呉軍の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めにあい、撤退を余儀なくされた。これにより中国全土統一の事業は頓挫し、その後に劉備が蜀の劉璋を降した事により、魏・呉・蜀の三国が割拠することとなった。

魏を建国

213年に魏公となり、216年に魏王に封じられ、後漢の配下の王国という形で魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢をほぼ乗っ取った形であったが曹操は最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。

220年、死去。遺言では戦時であるから喪に服すのは短くして、墓に金銀を入れてはいけないと言った。死後、息子の曹丕後漢献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝追号された。

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