三国志人物

情報提供 Ara china
http://www.arachina.com/
諸葛亮

諸葛亮
諸葛亮(181−234)、字は孔明、またの名を臥竜(伏竜とも言う)といいます。彼は漢民族で徐州琅琊陽都(今の山東省臨沂市沂南県)生まれ、三国時代蜀国の丞相、素晴らしい政治家、軍事家、散文家、書家、発明家です。武郷侯によって命を奪われ、その後「忠武侯」の諡号が与えられました。東晋政権は彼の軍事才能を称え、死後に「武郷王」の爵位を与えました。諸葛亮蜀漢政権を固めるのに心血を注ぎ、木牛流馬や孔明灯などを発明しました。そしてさらには連弩に改造を重ね、一回で十本の矢を撃つことができる「諸葛連弩」を作りました。彼は建興十二年(234年)に五丈原(今の宝鶏市岐山境内)にこの世を去りました。

諸葛亮は181年に琅琊陽都県の官吏の家で生まれ、8歳の時に父を失いました。16歳になり、彼の才能が抜群でも当時、彼を認める人は一人もいませんでした。しかし友人である徐庶、崔州平などは彼の才能を評価していました。当時、彼は「臥竜」とも呼ばれ、襄陽の名士司馬徽、龐徳公、黄承彦などとも交流がありました。黄承彦は諸葛亮に「君が妻を娶りたいと聞いているが、うちの娘はどうだろうか?髪が黄色くて、肌が黒く、醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はその話を受け入れるとすぐに結婚しました。

諸葛亮の生涯

三国志演義』と『三国志』の違い

三国志演義』中の本文中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明諸葛亮)のみである。この他、関羽も字で呼ぶか、「関公」と名前を呼ばずに敬意を表している。これは、以上の三人がこの物語の主人公であると暗に示している。

三国志演義』の成立は明初と考えられているが、その前身である講談などの民衆文化は北宋代から広がっていったと考えられる。それらのなかで孔明は、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。以下、孔明の事跡に於ける『三国志』と『演義』の主な相違点を挙げる。

演義』では曹操の南下作戦に於いて、曹操はその前に夏侯惇に十万の兵士を付けて派遣するが、孔明の作戦でこれに大勝した。となっているが、実際にはこの戦いは孔明劉備軍に参加する前の話である。

隆中の対策

207年の冬から208年の春にかけて新野に駐留していた劉備徐庶の勧めで3度、諸葛亮の家を訪れました。しかし最初の2回は諸葛亮に会えず、やっと3回目で会うことができました。『隆中対』の中で諸葛亮劉備に対して天下の情勢を分析し、「まず荊州を基地とし、そして益州を領有し三股の勢力を作り、さらに天下を争う」という戦略構想を示しています。三顧の礼の後、諸葛亮晴耕雨読の生活を辞め、劉備の軍師になりました。

赤壁の戦い

赤壁の戦いに於いて、前述の通り孔明はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては非戦論に傾いていた孫権周瑜を説得して交戦に向かわせる。戦いが始まってから周瑜孔明の才能を恐れるようになり、孔明に対して10日で矢10万本を作れと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、孔明は霧の出た夜に曹操軍に対して夜襲を仕掛け、曹操軍が打った矢を鹵獲して帰った。更にこの戦いでは曹操軍を火責めにすると決まっていたものの風が北西の風しか吹かず、このままでは火を付けてもその火が自分たちに帰ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで孔明は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたとなっている。

赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、孔明はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、孔明に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て孔明に看破され、再び怒った周瑜は「天はこの世にこの周瑜を生みながら、なぜ孔明を生んだのだ!」と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』にはない。

北伐

北伐に於いての孔明は『演義』では魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その後の最後の北伐に於いて、病状が悪化した孔明は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去した。

孔明の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て孔明の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。所が蜀軍には孔明の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。実はこの孔明は木像であった。後に現地の人間は「死せる諸葛、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったとなっている。(この台詞は正史の注『漢晋春秋』にあるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)

その清廉潔白さに対する民衆の期待や弱小な王朝に対する判官びいき的心情が混ざって、このような人間として描写する原動力となったのであろうと考えられる。


中国ビザ 航空券 港華