三国志人物

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孫権

孫権(そんけん、182年 - 252年)は、中国、後漢末から三国時代の武将。字(あざな)は仲謀、呉の初代皇帝大帝(在位222年‐252年)。男性。父は孫堅。兄は孫策

先祖は兵法家孫子孫武)とされるが、信憑性は低いとされる。眼が青く、髭が赤紫色だったことから「碧眼紫髭」と称えられ、長命で帝位に昇る相といわれた通り、三国志の君主の中で最も長命だった。男子は孫登・孫慮・孫和・孫覇・孫奮・孫休・孫亮、女子は孫魯班・孫魯育などがいる。

呉の礎を築いた父孫堅、「江東の小覇王」と恐れられた兄孫策の遺志を継ぎ、わずか19歳で呉の盟主となった。 三国志の中では、曹操劉備に比べるといささか印象が薄い孫権だが、3人の中でも一番思慮深く、外交策に長けており、偉大な現実家だったとも言える。

曹操の南征時には諸将が帰順を勧める中、あえて徹底抗戦の道を選んで劉備と同盟を結び、赤壁の戦いで曹軍を打ち破った。その後劉備が勢力を拡大して曹操を脅かす勢いになると今度は曹操に臣下の礼を示して恭順し、関羽を討って荊州劉備から奪い取った。また関羽の仇討ちのために東進してきた蜀軍を夷陵の戦いで破った後、早々に蜀漢と和を結んで魏に対抗するなど、時期を見計らってある時は魏と、ある時は蜀漢と同盟を結び三国の均衡を保っていた。

孫権の生涯

臣下にも恵まれ、孫堅孫策以来の旧臣である、韓当黄蓋、程普、周瑜らの武官や、張昭、張紘などの文官に加え、魯粛呂蒙陸遜などの新世代の優秀な文武官も若い孫権を支え続けた。

晩年は後継者問題で国を荒らし、王表という神を信じて福を求めるなど老耄が目立った。

大事記

200年 - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、江東一帯の主となる。
208年 - 曹操に大軍で攻められ家臣には降伏を奨められるも劉備と同盟し、赤壁の戦いに勝利する。
209年 - 妹を劉備に嫁がせる。
212年 - 本拠地を会稽から秣陵に移し、建業と改名。石頭城を改装
215年 - 合肥の戦い 魏の最前線合肥を攻めるが、逆に曹軍の武将、張遼に討ち取られる寸前まで追い詰められ辛うじて逃げのびる。
216年 - 濡須口の戦い 前年の合肥の戦いの勝利によって魏軍侵攻するも、これを食い止める。
219年 - 劉備と手を切って曹操と同盟を組み、関羽を討ち取って悲願であった荊州の奪取に成功。
222年 - 劉備夷陵の戦いで破る。同年魏から呉王に封ぜられ、「黄武」の元号を立てて、呉を建国する。
229年 - 皇帝に即位。
233年 - 公孫淵に九錫を賜り、燕王に封じる。しかし使者の張弥と許晏を殺され、その首は魏に送られた。
250年 - 二宮事件(孫和派と孫覇派の家督争い)を決着させる。
252年 - 71歳で死去。

周瑜

周瑜(しゅうゆ、175年 - 210年)は中国、後漢末の武将。字を公瑾と言い、呉の孫策孫権の軍師・大都督。

尚書令・周栄の玄孫、周興の曾孫、洛陽県令・周異の子、周循と周胤の父。妻は小喬。揚州廬江郡の人。

若くして立派な風采を整えていたので周郎(もしくは美周朗)と呼ばれた。(孫策は孫朗と呼ばれた)また音楽に精通しており、酔っぱらって居たときでもその間違いを聞き逃さなかった。

周瑜の生涯

孫堅が兵を挙げると息子の孫策やその家族を周瑜の家の近くに住まわせた(揚州に居た孫策周瑜が出会い、そこで仲良くなり周瑜が家を用意し自分の家の隣に住まわせたという説もある)。そのとき周瑜は同じ年で有ったこともあり仲良くなり、「断金の交(金属を断つほどの強い契り)」を結んだ。孫堅亡き後、袁術の元にいた孫策が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)、周瑜もこれに付き添い、功績を挙げた。

その後、荊州の皖を攻め落とし、この時、喬公の二人の娘(二喬)を捕虜にし、姉の大橋を孫策の、妹の小橋を周瑜の妻にした。孫策が亡くなった後、真っ先にその弟・孫権に臣下の礼をとり、他の者もそれにならとされる。周瑜は軍を取り仕切ることとなった。

208年、孫策孫権の仇である黄祖を討ち取った。その後の赤璧の戦いにおいては、呉軍を指揮し、劉備と共同しつつもほぼ単独で約100万の曹操軍を打ち破った。その後、益州劉璋が惰弱なのを見て取り、益州を占領し、天下を曹操と分ける天下二分の策を立て、荊州益州へ軍を発するがその途上で病気にかかり、36歳の若さで亡くなった。

なお、『三国志演義』では、二喬は、喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、妹は小喬と呼ばれ絶世の美女とされていた。

呂蒙

呂蒙(りょもう、178年−219年)は、中国、後漢末の武将。呉の大都督。字は子明。子は呂蒴・呂覇・呂睦。

汝南郡の人。姉の夫が孫策重臣であった縁故で、孫策に若くして仕えるようになる。200年、孫策が死んだ後はその弟である孫権に仕えた。

呂蒙は勇将で、その武勇をもって孫権のもとで数多の功績を立て、平北都尉・広徳県の太守に昇進する。そして208年の赤壁の戦いでも功績を挙げ、偏将軍・尋陽県令に封じられた。  

呂蒙の生涯

呂蒙は武勇においては呉の武将の中でも一、二を争う猛将であったが、教養は全くといってよいほど無く「阿蒙」と呼ばれていた。そのため、主君の孫権からも教養の大切さを諭され、よく学ぶようにと言われたという。このため、孫権の指摘を受けた呂蒙は必死に武芸の稽古から勉学に切り替えた。

ある日、友人の魯粛呂蒙にあれこれ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙は何でもスラスラと答えてしまったという。このため、魯粛呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」と評し、自分が亡き後の大都督に指名したのである。

219年、蜀の関羽を討って荊州を奪うという功績を挙げたが、この頃から病に臥せりがちであった呂蒙は、その年の12月に病のために死去した。三国志演義では、関羽の亡霊に取り付かれて体じゅうの穴という穴から血を吹いて死んだということになっている。





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