停電と断水の一日 4月13日(金)

ハルビンの大学に留学している「あんと」さんからのお手紙を紹介しています。「あんと」さんは今年の2月からハルビンで勉強しています。試練を経てだんだんパワーアップしてきましたね(と書かないと前の投稿とのギャップが・・・・)



それは、朝7時14分から始まった。
前もって通告されてはいたものの、列車は言わずもがな、テレビ番組でさえ時間通りに動かない中国のことだから、停電も断水もいつ始まるのか分からず、その時間を確認するため、私はいつもより早く起き、様子を見ていた。案の定、テレビ・冷蔵庫・トイレの電気が一斉に消え、そして水がでなくなったのは、通告された7時より14分遅れていた。しかしその時は、「14分なら可もなく不可もなく」等とのんきに構えていて、復旧する17時という予定も、恐らく30分くらいの遅れで済むだろうと踏んでいた。それが大きな誤算であったこと、つまり自分の考えがいかに甘かったのかを知ったのは、もちろん、復旧したあとのことであった。
長い冬から解放され、春になると、人々は当然喜びの声を上げる。しかし、長くは続かない。多くのハルビン人が「春は最も嫌な季節」、理由は「埃があまりにも多いから」というように、冬の冴え渡った晴天は消え、空は砂と埃で埋め尽くされる。そうなると必然的に、ほとんど毎日ぼんやりとした天気が続き、くっきり太陽を見ることができる日は限られてくる。
今日は、めずらしく天気が良かった。そのため昼間は電気がなくても授業はつつがなく過ぎ、黒竜江大学のほとんどの生徒は私も含めて停電のことを忘れていた。トイレの水が流れないことには閉口したものの、全員が前日の夜から、浴槽に水をため込んでいたから、まったく問題なかった。生徒の口から不安の声が漏れだしたのは、予定時刻の17時を一時間も過ぎてからである。私に関して言えば、今日は18時から、中国人学生である孫秋静に授業の補習をしてもらう予定であった。春になっていくらか和らいだものの、ハルビンの空気はまだ乾燥している。2時間二人きりで話していると、だんだん声がかすれてくるので、17時55分、私はいつものように花茶ジャスミン茶)を二人分用意していた。ハルビン人は本当に花茶が好きだ。
18時ちょうど、電話が鳴った。秋静だろう。彼女はいつも、来る前に電話を鳴らす。
「もしもし、あんと?あたしだけど。部屋に行けないんだよ。」「どういう意味?エレベータが使えないっていうことでしょ?」「それもそうだけど、とにかく一階まで来てくれる?」15時からその時まで、私は部屋で自習をしていた。それに、部屋の開口部が大きいので電気なしでも、18時くらいまでは何とか凌ぐことができた。だから、自分の部屋以外の様子については、何も知らなかった。一歩部屋から出て、いつもと様子がまったく違うのに、初めて気がついた。まず、長い廊下は電気が消えているため、真っ暗だった。それに、いつもうるさい韓国人やロシア人の部屋から、音楽や話し声が一切聞こえてこない。当然階段も暗かったが、とにかく秋静に会うため、六階から一階のロビーまで下りていった。もともと、ハルビンの電灯は暗い。一見豪華に見えるシャンデリアでも、それほど明るくない。吹き抜けになっているロビーについて、私は常々暗い印象を持っていた。それが、今日はさらに暗い。一ヶ所だけ、明るい部分があった。それは、受付けに灯された、一本のロウソクであった。異様に広いロビーに灯されたその頼りない明かりは、ロ
ビーをより一層広く見せた。恐らく秋静であろう人物が柱の陰に立っていたが、ハッキリとは分からない。相手もそう思っているらしく、こちらの方を向いている。1メートルの距離まで近寄って、やっとお互いを確認することができた。秋静が、「ニイハオ!」といった。普通、見知った間柄で、「ニイハオ」は使わない。「ご飯食べた?」「どこ行くの?」「最近どう?」などが一般的な挨拶になっている。この時の秋静は、暗い中で私を発見して、感激した様子だった。ロビーのソファに座ろうとする秋静を、私は「窓際なら勉強できるから」といって階段の方へ連れて行こうとした。しかし、警備員から止められてしまった。はっきりした理由は聞き取ることができなかったが、とにかくどこも真っ暗なのだから、勝手に動き回っては困る、というのが主らしい。仕方なく、ソファに座り、秋静とどうやって勉強するかを話し合った。彼女が言うには、復旧するのは19時半らしい、それから勉強を始めるか、さもなければ明日の土曜日の夜に変更するか。すでに1時間以上も遅れている情況から、本当に19時半に復旧するのか、私はかなり疑い深くなっていた。だから、明日の夜に変更しようということで、話をまとめた。こういった状況に中国人学生は慣れているのかと思ったら、こんな事は例外中の例外だという。1分程度の停電なら私も経験したことがあるし、彼女もまたそれくらいならあると言った。しかし、今日のような日は、一年に一度だけらしい。秋静は英文科の二年級なので、今回で二回目というわけだ。明日の土曜日、夜7時に会おう、といって私たちは別れた。こうなると、もう勉強どころではない。他の学生がどの様に過ごすのかも気になるし、復旧したあと一斉に電灯がともる劇的瞬間も見てみたい。まず、4階に住んでいる友達を訪ねた。彼女の部屋も南向きなので、なんとか18時くらいまでは、窓際で本を読むことができたらしい。しかし18時半になった今はそれもできない。一体どうしよう、と話している彼女の顔を、私はすでにはっきりと見ることができなかった。全体的にみて、このような情況を、留学生達は明らかに楽しんでいた。それも、ひっそりと。いつもうるさい韓国人やロシア人が静かだったのは、ひっそり楽しんでいたのだ。楽しみ方にもいろいろある。一人で真っ暗な部屋を楽しむもの。何人かで集まって、「ロウソクを持ってくればよかった」など”停電談義”に花を咲かせるもの、懐中電灯をここぞとばかり持ち出し、外に探検にでるもの、懐中電灯をミラーボールよろしく、部屋のなかに乱舞させ楽しむもの、等々。私は、一人で楽しむことに決めた。一斉に電気がついた瞬間、隣に先を越され、喜ばれるのもおもしろくないし、実を言うと、この日に限って、お腹を壊していた。静かな中、他の部屋で用を足すのは音の面で嫌だったし、なんせ流すたびに浴槽から洗面器で水をくまなければならないから、いつまで続くか分からない中、限りある資源、申し訳
なかったというのもある。自分の部屋に人を呼ぶのも、困りものだった。いちいち流していたのでは追いつかないので、汚物はそのまま、においは公衆トイレさながらであった。19時を過ぎ、外はどんどん暗くなっていく。こうなるとおもしろいもので、普段どこが明るくてどこが暗いのかが、明確に分かる。向かいのスーパーが明るいのも知らなかったし、「連鎖学府量販店」(学府路のチェーン量販店)と大きな七文字が書いてあるのも知らなかった。学校のすぐ近くに、割と大きなホテルがあるのも初めて知った。部屋からは、建設中の空き地を挟んで、公共アパートが見える。暗くなるにつれて、一つ、また一つと電気がついていく様をこれほど愉快な気持ちで眺めたことはなかった。部屋は完全に暗いわけではなかったが、トイレのある浴室は、外光から遮断された死角にあるので、真の闇になっていた。臭いに耐えきれず、水を流すことに決めたが、持っている小さな洗面器ではなかなか水槽が一杯にならない。同じ動作を何回も繰り返しているうち、両手・両腕があるのを、心の底からありがたいと思った。あまりに真っ暗なので、右手で水をくむことができても、トイレのタンクがどこにあるかまったくわからない、そのため左手が良い目安になったのである。それから、真の闇の中では、目がまったく用をなさないのも分かった。いっぱいに開いて、手を目の前で振ってみるのだが、視覚になんの影響も与えなかった。むしろ、目を開けていると、目の前に大きな板があるような、そんな錯覚さえ覚える。真の闇の中で、トイレのタンクに、小さな洗面器を使って、水をためている自分。想像すると可笑しく、またそれで笑っている自分も可笑しかった。
さて、時計は19時を回った。いよいよ大詰め、19時半の真偽は別として見損ねたらたまらない、やはり真っ暗な廊下へ出た。普段は少なくとも一人の服務員が常駐している廊下は、今は全くの無人で、どことなく、廃墟と化したビルの中にいるようだった。私の部屋はちょうど真ん中辺りにあるため、一度真っ暗な廊下へ出ると、再び自分の部屋を探すのが難しい。間違って他の部屋へ鍵を差し込むのも気まずい。そこで、向かいの部屋がちょうど麻ののれんを下げているので、わからなくなったらこっそりそれをさわって、自室を見つけることにした。私は自分の場所を決めた。階段の踊り場にある、窓辺である。ここなら学生寮を見渡せるし、自室と同じく、ここの窓辺も熱いお湯が通る「暖気」(暖房)があるので、必然、出窓になり、座ることもできれば温かい、ということから、そこへよじ登り、体は壁へ、足は暖気の上へ投げ出して、夕暮れのハルビンを眺めていた。格好の場所を見つけた、と一人ほくそ笑んでいた。冬の終わり、夜空を眺めた時、東京より星が多いのに驚いた。埃の多い春になった今、星はあまり見ることができない。やっと一つ、小さな光を見つけた頃、夕焼けの赤はほとんど薄暗いオレンジ色に変わり、黒や濃紺が空の大部分を占めていた。19時20分。そういえば、今日は13日の金曜日だなあ。中学生の頃、13日がたまたま金曜日に当たるとみんな大騒ぎしたものだったが、今日ほど奇妙な日は初めてだ。しかし、今留学に来ているような20歳そこそこの子たちに、13日の金曜日は通じるかなあ。。。などとぼんやり考えていた時。
ついに、その時が来た。
19時28分。廊下から、バチッと大きな電気音がした。
学生寮に次々と明かりがともり、それと共に歓声や、叫び声、口笛の音が上がった。中国人学生寮の電灯は一括管理されているので、大きな建物のすべての窓に、一斉に光が戻った。その様は、感動的といっても過言ではない。ついに、停電が終わったのだ。
廊下の電灯も戻り、自室へ帰ると、着け放しておいた天井の電気が明々と部屋の内部を照らしていた。中国について以来、いつも暗いと愚痴り続けていた電灯の、なんと明るいこと!ついに停電は終わり、我々は暗闇から解放されたのだ。電気のありがたさを確認すると共に、ハルビンに電気があって良かった、と心から喜んだ。

続いて19時40分、断水も終わりを告げた。トイレのタンクには水が貯まり始めた。一年に一度の停電と断水の日は終わり、完全に日常へと戻ったのだ。不思議なことに、電気や水道が流れだすと、今度は私の下痢がとまった。「一切順利」、すべては丸く収まった。ただ、冷凍してあった有機食品の餃子が、すっかり溶けてしまっただけだ。東京という便利なところで育ち、生活していたものにとって、北京や上海ならともかく、ハルビンでの暮らしは決して便利ではない。ましてや停電や断水などは、滅多に体験したことがなかったから、言わずもがなである。けれども、電気のない生活はさらに不便なこと、水がなければトイレの水も流せないこと、わずか十数時間ではあったが、体験できたのは貴重なことだと、情けなくもあるが、感じた。
以上が、「停電と断水の一日」の、顛末である。

★ 後日談
こんなに長い停電は、この日以降まだ体験していないが、断水は夏に入るにつれ、日増しに増えていった。ハルビンの水瓶である松花江が、ほとんど干上がってしまったからだ。今年の東北の日照りは、特に深刻だそうだ。たまに雷が鳴り、申し訳程度の雨が降ることもあったが、テレビのニュースでそれは「雨爆弾」と称される人工降雨であると知った。
今ではすっかり断水にも慣れたが、留学生寮にいる服務員から今日は停水(断水)」と前もって通知がもらえればまだいい。最近は、服務員にさえ通知のない、突然の断水が多い。そんな時のために、留学生は空のペットボトルを沢山用意し、水を貯めておく。トイレを流すには足りないが、汗だらけの顔を洗ったり、汚れた手を洗ったりするのに役に立つ。ハルビンにはクーラーがないから、日中は体中に汗をかく。だから夜まで断水が続くと、シャワーも浴びられず、辛い思いをする。
だが、早くに日本へ帰る私はまだ幸せなのだろう。毎年、8月にはいると3日以上断水が続く日があるという。今年の干ばつが深刻だとしたら、一体何日。。。帰国しない同学達の幸運を祈る。

★ さらに後日談

8月31日に再びハルビンへ戻ってきた。一日中断水だった。手も顔も洗えずに寝た。
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