西安&敦煌1999年

敦煌編>
7月15日(木)
この日も天気は良くなかった。でも昨日よりはましだった。僕らは郊外の陽関へ行くことにした。陽関は敦煌の町から西南へ76kmほどいった砂漠の真ん中にある。漢の時代に作られた関所でここから西が西域となる。途中、昨日の雨のために川が氾濫し、道路はぐちゃぐちゃだった。この風景を見て誰が敦煌だと思うだろう。敦煌って乾燥しているイメージが普通だ。タクシーの運転手も珍しいとしきりにいっていた。僕らの行いがよっぽど悪いのか?
今の陽関には烽火台しか残っていない。ここに駐屯した兵士達は烽火を上げて異常を中央まで知らせたという。ここから西へ旅立つ人にとっては最後の国内。西からやって来た人にとってはやっとたどりついた「中国」の入り口だった。今回の敦煌旅行で最もシルクロードらしい観光地だった。
陽関から戻る途中、タクシーの運転手が「莫高窟は東の千仏洞と呼ばれ、それに対して西の千仏洞があるが見るか?」と言った。僕等(特に幸之介)の仏像好きを知ってサービスに教えてくれたのだ。陽関までの道は一本道でその途中に小さく「西千仏洞」と書かれた看板があり、そこを右折した。駐車場には一台も車がなかった。僕らが降りていっても人の気配がない。石窟には鍵がかかっているし、どうすりゃいいんだ、と思って更に下に降りると男の人が数人で麻雀をしていた。僕が「西千仏洞を見たい」というと「ちょっと待ってろ」といって麻雀を続けている。麻雀のきりがいいところで立ち上がり、一番若い男の子に案内するように指示した。まだ十代の少年は鍵を事務所から持ってきて僕らを案内してくれた。ここはよっぽど観光客が来ないので、僕らが来たことにとても驚いていた。西千仏洞の石仏はほとんどが北魏時代以降のものだた。莫高窟とはちがってひっそりとした、趣のある石窟群であった。
次に僕らは「敦煌故城」へ寄った。西田敏行主演映画「敦煌」の撮影のために1987年7月に作られた敦煌城の復元ゼットである。日干しレンガで造られた巨大な城壁に囲まれ、当時の町並みなどを再現しているが写真で見るほど立派ではない。所詮映画のセットでつくりが甘くとりたてていくところではないと思った。まあ、僕の大好きな佐藤浩市もここまで来て撮影したということで、ちょっと感激して帰った。それにしてもこんなものをよくゴビ灘の真ん中につくったものだと感心した。
ホテルに戻り僕らは夕方になるまで街中を散策した。敦煌の町はどちらかというと漢民族の街に近い。でも売っている商品は新疆のものだったりして、東西交流の中心地であることがうかがえる。町の中心に琵琶を弾く女性像が立っているロータリーがあり、その近辺ではストリートパフォーマンスの人たちが演技をしていてにぎわっていた。
夕方になると、僕が一番行きたかった「鳴沙山」にいった。「鳴沙山」は街から見える大きな砂の山である。サラサラとした砂が神秘的な砂漠を想像させる。入り口でお金を払うと横に駱駝がたくさんいる。駱駝に乗って散歩をしてくれるのだ。僕は迷わず駱駝に乗ろうと思ったが幸之介が高いと文句をいった。たしかに高い。でも僕は駱駝に乗りたかった。駱駝に乗って砂漠を歩かなくてはシルクロードに来た意味がない。だがその夢はもろくも崩れた。駱駝がこんなに乗り心地が悪いとは思わなかったのだ。奴らは上下だけでなく前後にもゆれる。お尻のおさまりが悪く、だんだん痛くなってきて乗っていることが苦痛になってきたのだ。やはり幸之介の言うとおり自分の足で歩けばよかったかも・・・。しかも僕はラクダから降りるたびに足のかかとをラクダの後ろのこぶにぶつけてしまい、ラクダが痛そうだった。よく見ると涙を流しながら歩いている。ラクダよ、僕を乗せて歩くことがそんなにも辛いのか・・・!?
ラクダに乗って山の頂上につくと、ちょうど雲間から日差しが出てきて砂漠を幻想的に照らしていた。とても美しい砂漠だった。そこからラクダは月牙泉に向かった。月牙泉とは砂漠の真ん中にある3000年以上も水が枯れないという泉である。でもちょっと観光地化されしすぎたような感があり、観光開発を国全体で推し進める中国の姿を目の当たりにした気分だった。
今、敦煌はどんどん再開発と観光地化がすすんでいる。観光で成り立っている街だからぼったくりも多かった。敦煌仏教美術は素晴らしかったが、中国人(漢民族)の感覚でその芸術性が翻弄されているように思う。過去にも文化大革命でほとんどの仏教美術が破壊されたことがあったしこれからだって、外貨獲得のための道具になってしまう可能性はある。この素晴らしい仏教美術が未来永劫輝きを失わないことを強く望み、敦煌をあとにした。(この項終わり)
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