「就活」その1

私の大学、少なくとも私の狭い交際範囲では、留年したり就職浪人する人も少なく、クラスメートのほとんどが就職していたと思います。ゼミの友人も堅い会社に就職、サークル(合気道)の同級生はNTT.NECなどの大企業や高校教員、銀行、大手百貨店などに順調に就職していきました。1人だけ麻雀のプロ?(真偽不明)がいましたが、その後の消息は誰も知りません。
他の武道系の友人は当時の世相を反映してか、いまは倒産しているところも含めて金融機関が多かったと記憶しています。
サークルの顧問は戦時中はS経新聞の従軍記者をしていたそうで、宴会になると「ソ連の脅威」を盛んに我々学生に演説していました。夏合宿の前には隣の靖国神社に皆で公式参拝?しに行きました。かと思うと、学祭では左翼過激派学生(中年もいましたが・・・)の支配する自治会にタダで雇われて,学祭の警備もしていましたし、学祭のパンフレットの広告集めもしていました。
大学の入学試験では学校に雇われて(少し手当をくれました)、案内や警備をして、遅刻しそうで泣きべそかきながらやってくる受験生と一緒に教室まで走ったり東京六大学野球で優勝してはパレードの警備をやらされたり、思想なき便利屋として君臨?していました。
そういった世間知らずの牧歌的時代は終わり、いよいよ自分のポテンシャルを世間に証明しなければならなくなりました。しかし気づくと7月。地元横浜にあるいくつかの会社を会社訪問してみたものの、いずれも満足できなかった私は、あまりにも出だしが遅かったのですが、少年時からの漠然とした憧れから、新聞社に就職することを希望するようになりました。私の大学ではマスコミ関係に行く人も少なかった上、情報を取るために人とつるむのは嫌いというこの業界にあるまじき性格だったため、Y新聞のセミナーに参加するまで、この業界にも抜け駆けなり青田買いがあることにも気づきませんでした
当初地元の会社が妥当と考えたのは、父親がすでに定年過ぎで私は1人っ子だったため、地方や全国系の新聞社に就職すれば地方に赴任、いずれ辞めざる得ないと考えていたからです。東京の方が魅力的な会社もあったでしょうが、通勤にもまれる自分がどうも想像できなかったし、当時は(今から思えば社会経験が不足していたため)他に興味のある職種はありませんでした。
4年生の5月になってから準備を始めたわけですが、クラブの運営に時間をとられていたのと、要は現実逃避で情報収集を怠っていたため、就活に奔走する仲間をしり目に、あっと言う間に手遅れになりつつありました。
それにしても・・・5月頃だったかY新聞の就職セミナーでは、新聞記者に勝手にアカデミックな印象を抱いていたトロかった私としては、主筆Nさん(正確にはWさん)のガラッパチな演説にビックリでした。Y新聞は前年、就職協定を破って早くから訪問解禁にしたのですが、「そうすると商社に行くような頭の切れそうな若者がたくさん来た」とNさんは威張っていました。当時は商社マンは給料もよく洗練されているイメージがあったのです。これまで入社した人はたまったもんじゃないなーーと思ったものです。
Y紙は84年頃から論調が変化したとされていますが、自分が路線変更したものであると誇示し、さらに(その時の)総理大臣(N.Y氏)は自分が作った、ライバル誌を指して「イデオロギーにとらわれて本質を見失った」、社員の思想偏向は自由だが表現は許さん(正確な表現ではありませんがそのようなご主旨)など、報道志望の大学生相手に言いたい放題で平家の権勢もかくやの勢いでした。
後年スポーツ紙で「Nツネ吠える!!」見出しを見かけるようになりますが、学生時代にこのセミナーに参加してトラウマになったデスクに違いない・・。
ただ、たまたまNツネ氏が本音むき出しだったにすぎず、アカデミックと思いこんでいたA新聞も同じ様なものだったこと、Nさんにも表面からはうかがい知れないアカデミックな奥深い骨格があることなども後年知りましたが。
そして、このNツネ氏におもねる発言を繰り返していた編集局長?さん。ご自身のご子息やお嬢さんも大学生くらいかと思いますが、おそらく見られたくない姿でした。でもご本人は別にそうは思っていないのかもしれないなあ・・・。新聞社もサラリーマン社
会なんだと至極当然の感想を持ったのをいま覚えています。
(気が向いたときに続きを書きます)  
         
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