「就活」その2

私は前回書いた某新聞のセミナーに参加してからこれまでの怠慢な姿勢を改め、積極的に情報収集したところ、得られた結論は「今年はあきらめよう。浪人してもどうということはない」というものでした。
大学まで浪人したことなく、クラブも比較的単細胞な体育的活動だったし、ちょっと回り道したいとも思っていました。
というとモラトリアム願望が強かったように思われるかもしれません。
話は少し戻りますが、もともと中高の学校教育に失望していて、高校でも2年次中途で中退しようとしていたのですが、親に必死に止められ、大学くらい出ないと私を殺して一家心中すると脅すなどの猛攻撃にさらされ、こちらは親ほどの気迫や気概もなく、仕方なく大学を受験した経緯がありました。いまのように大検が一般的になっていればさっさと引きこもって勉強することを許してくれ、いわゆるモラトリアム精神を10代のうちに克服できていたかも知れません。
さて、そんなこんなで受験勉強を始めたのは三年生の夏が終わってから。ようやく自分でやる勉強が面白く感じられるようになってきたら受験目前。じゃあ浪人して勉強して、T大は無理でもW大、最悪でもY国大くらいならと気分を切り替えたのに、現役で無難なレベルの学校に合格してしまいました。迷ったのですが家の財政状態を考えて入学しました(その割に親から託された大学への寄付金を使い込んでしまいましたが)。その、燃焼していない未熟な気分を大学卒業まで引きずっていたようです。
私はリクルートスーツやら男女雇用機会均等法やらと格闘するクラスメートを横目に、粛々と11月まで合気道をし、それまでの肉体単純労働あるいはサービス業一辺倒のアルバイトに終止符を打ち、就職情報で有名なR社系列の会社でアルバイトしつつ、翌年の準備(新聞社は最初に筆記試験があります)を始めました。
この業界に就職するための予備校が有り、学費もそれほど高くなかったので、ここで筆記試験に大きな比重を占める論文の勉強をし、他の大学の勉強仲間と夜や毎土日お互いの論文の批評をしたり、時事論議をしたり、輪番で英文記事の解釈をしていました。
私はそんな準備はしながらも周囲の仲間の頭脳明晰ぶりを観察、自分の能力の限界を悟り、地元の新聞社あたりで「がんばれ大洋ホエールズ」でも書いていればいいや、と思うようになってきました。卒業してからでもはや遅かったのですが、大手の新聞社の情報収集をするうち、どの会社も憧れの存在と言えなくなってきましたし、地方都市に行くのも気が進まなくなっていました。で、卒業してからは目標を地元志向に縮小していましたが、ここでもどこでも書けませんが、事情が発生して地元の新聞社に就職するわけにいかなくなりました。(気が向いたときにつづき)
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