秦直道 (後半)

車は轍沿いにしばらく進んで、轍が無くなったあとは道なき道をがたがた
揺られながら走った。
幹線道路と垂直方向に5、600mほど行った所で止まり、一同は皆車から
降りた。
女性が指差した道路の方向を見ると、彼女のいうとおり、雨で浸食され谷
になっている部分の崖の土の色が少し他と違う部分がある。
そこが、「秦直道」が道の遺構として一番顕著な所だという。
「秦直道」は始皇帝匈奴の襲撃に備えて素早く軍隊を派遣するためにつ
けた、首都咸陽から九原(今の包頭)までの道である。
複雑な地形を無視して真っ直ぐになるように大工事をしたため、最も湾曲
している部分でも両地点を直線で結んだ線から15度以内の角度で収まる
という事だ。
また、上下の起伏を小さくするために山を削り、その土を谷に埋めたそう
で、彼女が指差して教えてくれた色の違う部分が、埋め立てた部分だとい
うことだ。
しかしこれでは、我々が自力で発見できるはずがない。
今となってはそれが大地ごと浸食を受けて、地面を平らにならした“証拠”
が残っているばかりである。
それに、規模が大きすぎるのだ。
道幅はゆうに20mを越しており、天安門前の長安街より広いかもしれない。
なるほど…と、改めて始皇帝のすごさを実感した。

この「秦直道」は、2005年5月には整備を終えて正式に開放される予定
だそうだ。
彼女いわく、当時の道幅が分かるように両脇に木を植えるし、博物館やちょ
っとした娯楽施設も作るのよ。
一見何もないこの場所が、どんな風に生まれ変わるのかとても興味があるが、
娯楽施設まで作らなくても…というのが、素直な感想だ。
そして、世に知られていない観光資源がこの国にはきっとまだまだあり、そ
れらをめぐる開発業者の活動もいっそう活発になるのだろう。
我々のような旅行者にとっても功罪相半ばするわけで、少々複雑な気分でも
あった。
また、我々がオルドスを訪れた数ヶ月後、2004年の秋頃、チンギスハン
陵でモンゴル族の学生の抗議行動があったというニュースを見た。
観光開発も民族の問題と複雑に絡んでいるようだ。
そして、チンギスハン陵を観光開発したのが我々の出会った彼女たちの会社
だ。
果たして、彼女たちの会社は、怒れるモンゴル族学生とどのように渡り合っ
たのであろうか…。
とまあ、小難しいことはさておき、個人レベルで考えると、彼女たちも公安
の偉いさんも、遠い外国から来た我々に対してはとてもフレンドリーで親切
だった。
帰りはそのままバンで東勝区のバス駅まで送ってくれることになったのだが、
途中、昼食には遅過ぎるが夕食には早過ぎる食事までご馳走になってしまっ
た。
公安の偉いさんもいる席でもあり、始終気を遣いながらそつなく場を盛り上
げていた彼女を思い出すと、頑張って仕事をしている姿にエールを送りたく
なるのである。

中国ビザ 航空券 港華