「剣門蜀道」編 3

(昭化故城)
 
 朝早くから明月峡を訪れたので、午後がぽっかり空いてしまった。
どうせ乗りかかった船(?)なので、三国志ゆかりの地、昭化鎮を訪れることにした。
ここは嘉陵江に面した古鎮で、春秋時代からある故城だが、
今なお宋代に作られた城壁に囲まれていて、こじんまりしたいい城だ。
古くから「蜀の咽喉」と呼ばれ、軍事上重要な地であったようだ。
それゆえ立派な城壁で囲まれているのだが、
万里の長城西安の城壁等々を見慣れている観光客の目には
「楽勝で乗り越えられそう」と言いたくなるような城壁である。
ここは三国演義に登場する葭萌関ではないかといわれている。
西側の臨清門を出て少し行った所に、
費イ(注1)墓と戦勝ハ(注2)という史跡が残っている。
前者は蜀の武将の墓、後者は劉備の弟分張飛馬超が一騎打ちしたといわれる地
(この一騎打ちがきっかけとなり馬超は、劉備につく)である。
戦勝ハは、畑の横に建つ今風の民家の軒先にポツンと建っており
ズッコケそうになるが、田舎の風景がなぜか三国演義の場面を思い起こさせる。
ここを訪れる前には、『三国演義』は必読かも…。
 戦勝ハの前でトクトクとしていると、いい感じの焦げたじいさんが話し掛けてきた。
歴史の深いこの町をとっても誇りに思ってか、いろいろと教えてくれたが、
なかでも町から見える山(牛頭山))を指差して「天雄関」に行けと言った時だけは、
ほとんど強制的だった。そう言われるとやはり、行かずにはおれず、
結局興味津々で行ってみることにした。
 臨清門の前にたむろしているバイクタクシーの運転手と値段交渉を始めるが、
何やら道が悪いとか3人乗りは無理(私たちは2人なので)だとか、
値段を吊り上げようとする。どうせいつもの手だと思いつつ、
どうにか交渉成立し出発したが、いざ走り出すとその理由がわかった。
未舗装の坂道をずんずん登っていくのである。
結局、値切り倒して「バイクで行ける所まででよい」ということにしたので、
20分ほどで降ろされることになる。ここからは細い山道を行けと言われ、
歩いて上ることに…。しかし、この道が思いのほか良かった。
いきなり「古蜀道」という石碑が現れ、古い石畳が山の中腹へと続いている。
振り返るとバイクで走ってきた尾根と昭化の故城、尾根にそって湾曲する嘉陵江が一望
できる。
明月峡では断崖にそった古蜀道(桟道)を見たが、
ここの道は大きく視界の開けたとてもすがすがしい道である。
40分ほど石畳の道を登ったところに、天雄関はあった。
今は甘露寺というお寺であるが、石碑やかつて建っていたであろう建築物の残骸が
そこここに散らばっている。ここからの展望も雄大である。
張飛馬超の一騎打ちの際、張飛は葭萌関から出陣したのであるが、
馬超はここ天雄関に駐屯して出陣したらしい(あくまで伝承の話だが…)。
確かにこの地に駐屯すれば葭萌関の様子は手に取るように見え、
斜面を駆け下りての攻撃は勢いがあり、
また丸見えの斜面を登ってくる敵の攻撃を挫くのは易い…三国演義を読むと、
ついつい武将になったように錯覚して戦術めいたものを考えてしまう。
以前、天雄関は葭萌関と言われていたこともあるようで、
葭萌関と記した石碑も建っている。
数千年も前の話だし歴史的に正確なことは知らないが、尾根に伸びる古の道と故城、
河を眺めていると本で読んだ出来事が絶対ここで起きたに違いないと思えてくる、
そんな迫力のある景色である。
という訳で、じいさんのお勧めは大当たりだった。
昭化へは広元市内の南河汽車站からバスで約40分。
私たちは午後から半日で行った上、予定外に天雄関にも足を伸ばしたので、
帰り道、天雄関からはほとんど走るように下山し、
途中で通りすがりのバイクタクシーをひろえたので無事広元行きのバスにも
間に合ったが、やはり帰りのバスの時間は確かめておくべきだった。
私たちは午後4時半ごろのバスに乗ったが、かなり田舎なので何時までバスがあるかの
保証はない。天雄関を含めじっくり観光したいなら1日かけるべきだろう。
他に鮑三娘墓など見所は多い。
 (注1)「ハ」は、 [土+貝](つち偏+貝)、繁体字では[土+覇]、発音[ba 4声]。
(注2)「イ」は、 [示+韋](しめす偏+韋)、発音[yi 1声]。

                                (つづく)
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