「剣門蜀道」編 

剣門関とその周辺(金牛道・翠雲廊)

 翌日、剣門関へ行った。
剣門関はそこそこ名の知れた観光地なので、設備も整っている。
上手に観光するなら、まず剣門関を少し通り過ぎた剣渓橋までバスに乗るのがよい。
現存の橋は明代に作られた石橋で、さほど大きくないがどっしりとしていて、
歴史を感じさせる橋だ。杜甫がここで「剣門は天下の壮」と詠んだらしい。
剣門関方向へ戻ると(バスが通りかかればちょっとだけ乗せてもらうのが楽)
金牛道という石碑の建った所がある。
石碑の脇の小道をたどれば剣門関下のリフト乗り場へ着く。
この小道は、広くいえば古蜀道で、特にこの辺りの古蜀道を剣門蜀道と呼ぶが、
あえて「金牛道」という名でも呼ばれている。
「剣門蜀道」編の冒頭でも少し説明したが、そもそもこの道は、戦国時代、
秦の恵王が蜀王を騙して敷かせた道である。蜀王はどのように騙されたかというと、
そのエピソードが馬鹿げていておもしろい。
秦の恵王に金の糞をする牛(金の牛ではないところが興味深い!)を贈るからと
いわれて、蜀王はその牛を連れてくるための道を敷いた。しかし結果、
その道を通ってきたのは秦の軍隊であり、蜀はこれによって滅ぼされた。
他にも、秦には美女がたくさんいるという噂を蜀王に吹き込み、蜀王に美女を
奪いに行くための道を敷かせ、秦王はその道から侵入し蜀を滅ぼした、などという
エピソードもあるらしい。

「金牛道」の石碑脇から小道に入って行くと、道端に石臼が転がっていたり、
剣泉という何やらいわれのありそうな湧き水があったりとなかなか楽しい。
バスで通った道路が平行して走っているが、トラックやバスの騒々しい往来とは
別世界の静かな田舎道である。
もちろん舗装道路ではなく、民家や畑の間を縫うように続く道だ。
ばあさんが牛を牽いて来たのにすれ違ったので、
ついつい地面に目をやり例のものを探したが、それは金ではなく普通のそれであった。
途中特別珍しいものがあるわけではないが、いい感じの道沿いに20分ほど歩くと、
リフト乗り場に着く。
迷うことなくリフトに乗ることにした。
お客がいなかったのでリフトはまだ動いていなかったが、
客が来ると動かしてくれるようだ。なかなか立派なリフトだが、
民家の軒先をかすめるように吊られていて、何となく花屋敷を思い出す。
リフトで登ったところからの景色は、圧巻だ。
ゴロゴロとした大岩が転がる渓谷のもっとも狭まったところに剣門関の楼閣が
建っているのも見えるし、剣門七十二峰が自然の要害をなしている様子も実感できる。
まさに難攻不落…そんな言葉を思い出す。
リフトで下るのが一般的だが、小道をたどって剣門関に行くこともできる。

磚作りの剣門関の楼閣はもともと清代に建てられたものだが、
1993年に剣閣県政府が改修していてかなり立派だ。
内部には三国時代の蜀の武将、姜維の像が飾られている。
諸葛孔明亡き後、剣門関にこもって最後まで魏と戦い続けた人だ。
このあたりには姜維にまつわる伝承が多く、剣門鎮のはずれの病院の向かいに
姜維墓と姜維廟遺址がある。
墓は、剣門関から村に入る入り口あたりで人に聞けばすぐわかる。
姜維廟遺址は何も残っていないが、墓のすぐ近くだ。
また、姜維豆腐(剣門豆腐ともいい、豆腐尽くしの宴会料理)が剣門鎮の郷土料理と
して有名だ。もっとも、ここでしか味わえないというわけではなく、
剣閣や広元の食堂でも食べられる。

 剣門関から剣閣への帰り道に、翠雲廊がある。
剣門関からはバスで15分ほどのところにあり、またまた途中下車の旅だ。
もともと翠雲廊とは、張飛がロウ(注3)中に駐屯していた時、
移動の便を図り整備した梓潼〜ロウ中を結ぶ街道らしい。
ここはその一部で、当時植林された柏の木が美しく残っているところを観光用に
整備した部分だ。これらの古柏は避寒避暑のために植えられたというが、
確かにうっそうとしていて、外界の暑さ寒さを忘れさせてくれる。
柏の巨木がここの売りだが、日本人観光客には「阿斗柏」の方が興味深いかもしれ
ない。劉備の息子の阿斗が魏に連行される時、雨宿りしたといわれている柏である。
なお、剣閣から剣門関への交通は、乗合タクシー・広元方面行きのバスどちらも
利用できる。所要30〜40分。本数はたくさんある。
(注3)「ロウ」は、 [門+良](もん構えの中に良)、発音[lang 2声]。

DREAM夢之旅剣門蜀道:http://www.dreams-travel.com/sc/sc_jmsd/index.asp
剣門蜀道旅游網:http://jgdfsw.best.163.com/
広元風光:http://61.139.58.66/travel/index.htm

(「剣門蜀道」編 おわり)