「河南」編

メン池県
三門峡市から洛陽へは、バスを利用した。というのも、途中、歴史の
教科書でお馴染みの「仰韶文化」(いわゆる“黄河文明”)遺址を見
るためである。もっとも、訪れる前から、見るべきものは何もない、
ということは知っていたのだが・・・。
 
仰韶村は、三門峡市と洛陽市の間、メン池県県城から北に7キロほど
の所にある。三門峡長途汽車站から、洛陽行きの低速バスで1時間ほど
の所にあるメン池で降り、あとはタクシーに乗って行くしか方法はな
い。

仰韶村は、1921年新石器時代の遺跡が発見されて以来、仰韶文化
(BC5000〜BC3000)という呼び名を通して世界にその名を知られるよ
うになった。しかし、現在では、発掘現場の側面を固めて展示してあ
る簡易博物館(?)があるのと、「仰韶文化遺址」と書かれた記念碑
が村の高台に立っているのを除けば、何の変哲もない農村である。
発掘現場は、全て埋め戻され麦畑となっている。それでも、発掘作業
中には、この地中から魚の紋をあしらった素土器などが出てきたのだ
と想像するだけで、ぞくぞくするではないか! 旅には、いくらかの
想像力も必要だ。
 
記念碑のある高台から眺めた村の様子は、どこにでもある普通の景色
だ。そして、ようやく文明を持ち始めたばかりの人類も、まさにここ
で粟などの穀類を栽培し生活していたのだから、やはり、歴史の重み
を感じないわけにはいかない。今も昔も我々は、耕して糧を得る動物
なのである。
 
地形的な理由と道路の未発達によるのだろうか、この村では麦の借り
入れは手作業だった。目の前ののどかな風景が続いてきた時間の長さ
を考えると、コンバインが闊歩している風景の方が、非現実的に思え
てくる。

 帰りのタクシーの中で、運ちゃんが「古秦趙会盟台」には行かない
のか?と聞いてきた。どうやら、この街の目玉観光地であるようだ。
とりあえず、言われるままに行ってみる。よほど中国史に詳しい人以
外、馴染みのない話だが、やはりここにも古い歴史の故事が残ってい
る。
 
戦国時代も終盤の紀元前279年。「刎頚の交わり」や、完璧の語源とな
った「和氏の璧」などの故事で知られる“藺相如”が活躍した「メン
池の会」がこの地で行われた。当時強国であった秦の昭襄王が、趙の
恵文王にメン池で修好の会見をすることを申し入れた。趙の恵文王は
宰相の藺相如を伴って会見に臨んだ。そして、その酒宴でのこと、弱
小国の趙の王である恵文王は、秦の昭襄王によって、瑟を弾くことを
余儀なくされる。つまり、属国としての辱めを受けたのだ。この状況
を見かねた藺相如は、すぐさま昭襄王の前にでて、「王は瓦缶(瓶の
ような物らしい)を打つのが上手であると聞いているが、ひとつお聞
かせ願えぬか」と詰め寄る。藺相如の死をも恐れぬ勢いに負け、やむ
なく昭襄王は瓦缶を打つ。これで立場は対等だ。藺相如は、恵文王の
面子を保ったのである。
この一場面の舞台になったのが、「古秦趙会盟台」であり、今は、
丘の上に碑が立っているだけである。

興味のない人にとっては何ら面白くない場所かもしれないが、入場チ
ケットには少々価値がある。昔よくあった、ビニール製のチケットだ。
懐かしい。裏に書かれている額面は1角、上に判子で1元と訂正して
いる。材質のせいで「1元」の文字が擦れて読みにくくなっている。
あまり観光客もやってこないから、新しくチケットを作りなおすこと
もないのだろうが、あと何枚このチケットが残っているのだろう・・・。
中国人の知り合いに門票(入場チケット)収集家がいるが、彼女にそ
のチケットをあげたところ、これは貴重だといっていた。もっとも
素人の収集家なので、どれくらいの価値があるかの保証は無い。

メン池から洛陽へのバスの中、どうやら暴睡してしまったようだ。
車窓の風景の記憶がない。最近の中国のバスは、豪華高速バスであろ
うが、低速の中型バスであろうが、いわゆる“長距離バス”には、必
ずモニターが付いていて映画(DVDかVCD)を放映してくれるが、この
日のバスの運ちゃんは、映画より民歌(中国の民間歌謡)が好きだっ
たようだ。カラオケさながらの民歌のVCDを聴きながら深い眠りに落
ちていったような気がする。

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