成都周辺三国志遺跡

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翠雲廊
翠雲廊またの名を「皇柏」、「張飛柏」、剣閣県に位置し、険しさで知られた剣門蜀道の一部分であり、剣閣県の中心部を中心とし、東はロウ中、西は梓潼、北は昭化まで続いています。濃緑の古柏によって構成されている回廊は緑の巨大な竜のように、起伏に富んだ山並みに沿って、深い谷間を越えてくねくねと続き、剣閣古駅道の上に絡んでいます。千年来、翠雲廊の古柏は天災と人災に襲われ、現在保存されているのはわずか廊道の7900余本です。元の規模に比べてはるかに少なくなり、長い年月が経っているが、依然として生気が満ちています。世界でもめずらしい植樹された古い街路樹の集合体です。最大の樹は8人が両手で抱えるほどで、小さいのは3〜4人で抱えられます。巨木の並木の林に幼柏の樹林が加わり、古くから「柏の郷」と美称された剣閣山に美しい一景が追加されます。

翠雲廊観光地

百里に及ぶ翠雲廊の一番きれいところは剣門関から、北へ7キロ離れた大柏樹湾にあります。狭い意味の翠雲廊はここの翠雲廊観光地を指します。翠雲廊観光地は国家森林公園であり、三百里の翠雲廊で最も大きく、最も評判の高い数本の木はここにあります。密集して生きていた古柏が多種多様な形をしており容姿がそれぞれ異なっています。人々は生長ぶり、外観及び歴史伝説によって、素晴らしい名前をたくさん付けています。例えば、生長ぶりで名付けられた「鴛鴦樹」「姉妹樹」「羅漢樹」「観音樹」「白象呑石」(白い象が石を飲み込む)など、大きさで名付けられた「状元柏」「帥大柏」「寿星樹」など、および歴史故事から来た「阿斗柏」「望郷柏」「石牛樹」「仙女樹」などが有名です。

翠雲廊植林の伝統

翠雲廊の古柏が現在まで保存されたのは、歴代の厳しい命令が保護に深く関わっています。駅道と並木ができて以来、人々は道と木を保護することを責任としていました。山岳地帯の人々は橋と道の修復及び柏の植林を美徳としたり、子孫への思いやりとしたりしていました。ですから、古くから道と木を保護する良い習慣があります。そしてこのような素晴らしい伝統は今でも伝えられています。

文献記録、現存した古柏の研究学者及び民間伝説によると、古蜀道は歴史上大規模な植林が6回行われて、2回目が三国時代だといわれます。


張飛

"張飛柏"は剣閣の人々の間で翠雲廊の古柏の代名詞になっていて、昔からの言い伝えが今まで伝えられています。 張飛が当時と巴西(現、[門良]中県)の太守をつとめていたとき、軍事政府との往来が盛んでした。 当時、剣州(現、剣閣)は蜀の都から中原へ行くとき必ず通らなければならない場所でした。 政治と軍事上の必要から張飛は部下の兵士と庶民に道の両側に植樹させ、兵士と庶民の努力によって植樹の任務を完了しました。

今日、民間では当時の張飛に関して「午前中植樹して、午後は涼んだ」という伝説が残っています。 考察によると、翠雲廊の両側の直径が2メートルの古柏の木は"張飛柏"であることが分かりました。


蒋ワン墓
蒋琬(ワン)は蜀漢の名将です。諸葛亮五丈原で死に際して、皇帝劉禅に後事を蒋琬に託すと上書しました。延熙九年(246年)病気で亡くなり、涪城に葬られ、その墓が一度荒れ果ててしまいました。

四川省綿陽市郊外の西山にある蒋ワン墓は、八角形をした石の墓で、高さ4メートル、周囲25メートルあります。墓の側には蒋候祠があり、祠の前には蒋ワンの銅像があります。その表情は荘厳で穏やかで彼の個性を表しています。 表門の両側には14字の聯雲が書かれており、蒋ワンが諸葛孔明を助けたという偉業がたたえられています。

長期にわたる戦乱の時代、蒋ワン墓は草も伸び放題で荒れたままになっていました。

蒋ワン墓の修繕

1849年、綿州牧(官職)李象丙、邑紳(地方で勢力のある人)熊文華が元の地に墓を再建して、墓の前で高さ2.45メートルの「漢大司馬蒋恭侯墓」石碑を建てました。光緒十六年(1890年)、龍安府の府知事である蒋徳均が蒋琬の後裔と名乗って、墓を修繕し、墓の後ろで「蒋恭侯墓」という石碑を建て、その碑文が楷書顔体(唐代の名書家の書体の一種)で、とても重厚かつ勇壮で後世に書道の珍しい作品とされます。墓から約250メートルところには清代道光年に建てられた蒋恭侯の祠堂三間がありました。元の祠堂内には歴代の対聯や横額がたくさんあり、ほぼ全てが名家の作品でしたが、残念なのはその文化的逸品がすでに祠堂と共に壊れました。

現在の蒋ワン墓

現在墓が全面的に修繕され、墓道の石人、石馬も復元されました。木々もたくさん植えられ、囲いと門が建造されました。今の蒋琬墓、祠堂がすでに綿陽市西山公園人を引き付けるスポットになり、蜀漢名臣蒋琬を墓前で弔う名勝地です。

姜維
姜維墓は四川省剣閣関にあります。西暦264年、鐘会は�殀艾が蜀を占領して反乱しようとしているとねつ造して誣告しました。司馬昭長安に到着したあと、成都に進軍して�殀艾を護送車に監禁しろと鐘会に命じました。鐘会は蜀を占領したいため、姜維に戦略を聞きました。姜維は北方から来た兵士たちを全部殺せと指示しました。しかし、その陰謀がばれてしまったので、姜維と鐘会は戦乱の中で、その兵士たちに殺されてしまいました。姜維の遺体は斬り刻まれました。享年62歳。彼の妻も死刑に処せられました。

剣閣姜維墓の旧跡

剣門古道上の営盤嘴は山の峰が幾重にも重なり合っおり、高くそびえ、まるで天然の城郭のように見えます。三国の時、剣門関を守っていた蜀漢大将軍である姜維の墓はここにあります。姜維の墓は土の墓で、長さ2.8m、広さ2m、高さ1.5mです。墓の前に先祖の像と位牌が安置してある堂があります。堂の真ん中には、「漢大将軍姜維之墓」と彫られた墓石があります。1936年、川陝鉄道を建設していたので、この墓を平囊侯祠に移転しました。現在、もとの土はまだ残っています。

剣閣平囊侯祠

四川省広元市剣閣県剣門関観光エリアの東南部に平囊侯祠があります。姜維の墓は平囊侯祠内にあります。平囊侯祠は姜維祠とも呼ばれ、明代正徳年間から建て始められ、前後二つの庭に分けられました。前の庭に、劉備関羽張飛の座像が置かれ、武聖宮と呼ばれています。後ろの庭の正殿に、姜維の座像が置かれ、忠勤祠と呼ばれています。現在の姜維祠は2009年に前の場所に立て直したもので、もとの建築様式を基本的に維持し、姜維殿、授略堂、姜維墓が含まれています。

授略堂の後ろは姜維墓です。碑文には「漢大将軍平囊侯姜維之墓」が刻まれています。姜維墓がいくつかあるという説がありますが、本当か嘘かずっと言い争っています。この姜維墓は広元市で、第一回目に認定された重要文物保護単位の一つです。

�殀艾父子墓
剣閣県�殀艾父子墓は四川省剣閣県の県庁所在地から北に10キロの北廟郷孤玉山に位置しています。 �殀艾父子は謀反をたくらんだと濡れ絹を着せられこの地で殺害されました。 墓は土塁で、周囲は黒い石で築かれています。墓の前に、「魏大将軍�殀艾之墓」という八文字が大きく彫刻されています。それに、李申夫の書いた『十三峰書屋全集』で記されていた�殀艾が殺された経緯が細かく彫刻されています。

文革時代、墓穴は掘りかえされ、石で作られた二列に並んでいる墓穴が発見されまし。 2つの墓穴からはそれぞれ棺おけが1つづつ発見され、ぞれぞれ長さ3メートル、幅1.4メートル、高さ1.8メートルで、2つの墓穴の間の距離は2メートル離れていました。

�殀艾墓の右側50m離れているのは�殀艾廟(彰順王廟です。彰順王は�殀艾死後、五代前蜀王建天漢元年からもらえた名前)です。唐代以前から建てはじめ、規模が雄大で、歴代にわたってどんどん増築していき、もっと広くなりました。廟の中に、�殀艾父子の彫像があります。ここ数年、発見された明代弘治八年(1495年)に彫刻された石碑の記載によると、地元の人は大きな災害に遭うたびに祭祀し、災害と戦うためにも祭祀します。中国が成立後、廟は学校に改造されました。その後、学校を改築するために、廟が取り壊されました。現在、正殿しか残ってなくて、北廟郷学校の学生寮として使用されています。

陝西渭南市蒲城県�殀艾衣装塚

蒲城�殀艾墓と�殀公祠の由来

�殀艾が殺された後、彼の家族はばらばらになって逃げ隠れてしまいました。そのうち、関中左馮翊重泉県東河川(現在の蒲城県後阿村)に定住するようになった人がいました。そのあと、一族が続々とこの土地に集まり、とうとう�殀家堡になりました。先祖の�殀艾を追想するため、彼のわずかな遺品を村南卜地に埋め、衣装塚として祭祀するようになりました。

西暦273年、晋武帝は�殀艾の冤罪を晴らし、彼の孫である�殀朗を朗中(六品官)まで抜擢しました。その後、馮翊張郡守と�殀艾一族の人たちは�殀艾を永遠に記念するために、�殀公祠を再建しました。これが蒲城�殀艾墓と�殀公祠の由来なのです。

蒲城�殀艾墓と�殀公祠の現状

�殀公祠は火事にあって壊されたので、現在、墓と石碑しか残されていません。墓は南向きでです。墓の土盛りは逆さまにしたじょうごのように見え、高さが約3.5mで、周囲が約10mです。土の部分に、わずかに残った瓦礫があります。そのほか、墓には石碑が二つあります。一つは前秦苻堅建元三年(西暦367年)三月に作り上げられ、『魏書』が彫刻され、芸術価値のある石碑です。1970年、西安碑林に移転して保存されています(現在、墓には石碑の台しか残されていません)。もう一つは大金承安四年(西暦1199年)十月に作り上げたもので(文字がはっきりしないので、年号は不明確)、現在、依然として墓にそびえ立っています。
葭萌関


葭萌関は古い関所の名前で、葭萌県にあるのでその名を付けられており、今まで2300年の歴史を持っています。『三国演義』の「張飛馬超との戦い」で世に知れ渡っています。

現在、葭萌関の古関城は無くなり、煉瓦作りの拱形城門だけが残っており、石積みの城壁の上に立っています。今の葭萌関は宋の開宝五年以来の「昭化」という名前をそのまま使い、四川省広元市元壩区昭化鎮に属しています。昭化古城は古代文化を伝承していく古城であり、とりわけ三国文化が残っていることで世に広く知られています。揚子江の支流嘉陵江に注ぐさらに支流の清水河に沿い、四戦の地とも言われ、東西南北の各関に通じ、蜀の咽喉に当る重要戦略拠点で全体が遺跡となっています。今まで中国国内で最も完璧に保存されたただ唯一の三国古城で、費褘墓、鮑三娘墓、牛頭山、姜維井などの三国遺跡が残っています。

重要な地理的位置

秦と蜀の交通要路であった葭萌関は、嘉陵江と白竜江の合流するところに位置して、陸路は上に漢中に、下に成都に繋がり、嘉陵江に沿って下れば巴蜀西部の重鎮であるロウ中に着くことができるので、とても重要な地理的位置を占めています。蜀漢歴史上でも、葭萌もずっと軍事的要衝でした。

昔、成都から長安(今の西安)に行くには、必ず昭化西門から入り、昭化東門から出る、逆に、長安から成都まで行くと、東門から入り西門から出ることになっていました。「葭萌関」は昭化古城の西門、即ち「臨清門」でした。臨清門は古城の西門であると同時に「葭萌関」の関所です。専門家の考証によると、「城」を「関」とした関所は、中国全土が僅か一箇所で、他の所は「城」と「関」が別々に設置されていたようです。

張飛馬超の葭萌関戦い

魏呉蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備成都の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ漢中の張魯(ちょうろ)の南下に対して援軍として出撃します。成都進出への足がかりを作りました。当時、曹操に破れ張魯のもとにいた馬超劉備軍と戦います。張飛馬超は決着がつかず馬超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超劉備の下に身を寄せます。以後、張飛馬超は蜀の五虎将軍のひとりとなります。

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